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映画の話で出た「閾値」という概念の補足

名作/傑作の話で出した「閾値」という概念について説明が雑だったように思えたので、備忘兼補足。

例えば「オタクにしか受けない作品」について、なぜそれがオタクにしか受けないかと聞かれると、そりゃニッチな需要しか満たしていないからなのだが、一因として「既に観た/読んだ作品によって概念やストーリー、機敏への理解の素地が作られていないと理解が難しい」部分があるからではないかと思う。どうしてそんなに複雑なことをするのかといえば、全く同じレベルのものでは同じ感動は得られないからだ。一種の発見というか、新規刺激と表現したが、これがないとただのクリシェ(使い古された概念)の集合体になってしまって面白みがない。これがオタク界隈である程度共有されているのは「(有名作品によって)特定要素に対して閾値がオタク需要内でガラパゴス的に上がった結果」だと思っていて、これを映画の投稿では蠱毒と表現している。「放課後いつも片付けが遅くて部活動の声だけが遠くに響く静かな教室で2人残されて気だるげに『帰ろっか』と言ってくる北上様概念」をえっちとするのはオタクだけなのだ。まさしく蠱毒だろう。

有名作品を視聴していないと絶対に理解できないのかと言われればそんなことはなく、人によって閾値の許容範囲は違うから飛び移れるかもしれないし、そもそも後年の作品に傑作によって底上げされた閾値の「エキス」が入っている(底上げされた分の概念を形を変えて利用している)というのが創作物の歴史の在り方なわけで、これらの経験値が理解を助けることになる。そういう意味で、過去の傑作を、或いはそれ自体の視聴を目的としないのに義務的に視聴することを「履修」と呼ぶのは言い得て妙だ。

先ほど創作物の〜と述べたが、例えば絵画芸術とかというものも「他作品により見方が踏まえられているから、その作品を評価できる」という歴史感覚が存在するわけで、だからこそ美術史教養が作品鑑賞に役立つのだと思う。

更にいえば、これは恐らく初期の読書体験にも同じことが言える。
本読まないと本読めるようにならないというか、そういった感覚が少なくとも私にはある。
例えば、実際に自分が感じている感情を我々は簡単に「嬉しい」「悲しい」などと、或いはもっと細分化しつつ類型化できているが、本当はぐちゃぐちゃな心の内を類型化するのはそれなりの訓練が必要である。それを踏まえると、自分の感情の細かなラベリング経験も少ない小学生が自分の感情と本に書いてある感情を「抽象化して分類すると同族だな」と共感できるようになるのはかなり高度な閾値なわけで、寧ろ道徳的とも言える「感情の分類」という視点を持つという「閾値を上げる」行為をしないでその次を踏むのは至難の業だろう。だからなのか、教育的には一種の「キャラ読み」が出来て「共感」もしやすい、という路線が大事なんだろうと思っていて、「お手紙」や「ごんぎつね」は、そのステップアップに見える。

比較的単純な文学作品の構造的な特徴として、「登場人物が新情報を与えられたときにしか感情の変化は起こり得ない」というものがある。新情報が特にやさしいものは必ず新情報を知った/目にしたことが明記されるわけで、こういった符号を我々は無意識に処理することに慣れていく。自分で本を読み始めるときに向いていると思うのは、この新情報を与えられたとき「単一のステップで単純な行動に結びつく感情を獲得する」物語だ。
2つの感情が登場人物内で比較されるパートがあったり、例えば「悔しい→いじける」じゃなくて「悔しさをバネに」みたいな性格的な比較が必要なものは、当たり前かもしれないが複雑に過ぎるように思う。はじめのうちは「(新情報)→(感情の獲得)悔しい→(行動)いじける→(新情報)慰め→(感情の獲得)奮起→(行動)」というような展開のものが望ましいだろう。
そういう意味でも、物語の読書力は純粋な感性というよりも、読書体験による閾値の底上げと感覚の拡張がものをいうと思う。

なにかあれば追記予定。

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