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憧れと成長、そして忘れることについて

こんにちは。岡崎です。

人には、得手不得手がありますよね。一つの事が得意な人がいても、その人にも不得意で、「これについては何をやってもだめだな」というような分野があるはずです。ないとおかしいです。逆に、生きてれば何か慣れてできるようになってくることもあり、生き方がそれぞれにあるという意味で、「誰もが自分の才能を見つけることができる」というのもあながち間違いではないのかもしれません。

今日は、そんな中でも、僕自身の人生において、やりたかったこと、壁にぶつかったこと、気付いたら成長していたこと、忘れていたが久しぶりに始めてみたら案外面白くて好きになったこと、トラウマが生まれてしまったことなどについて考察したことを書こうと思います。

「トラウマ」と聞いて身構えてしまった皆さんに先に言わせてもらいますが、別に重い話ではないので安心してください。体験や思い出としては思い出しても後悔や辛さが残っていますが、別にこのnoteでそれを中心に書きたいわけでは無く、こんなこともあったな~と、自分の人生経験をちょっと振り返ってみる、という類の記事なので、安心してお読みいただけます。

特に幼少期とかだとそうですが、何かに憧れたり、周囲の人を見て自分も将来こうなれるかな、と思うことがあると思います。まあ、新入社員にしたって先輩社員の背中を見るとそういう感情を抱くものだと思うので、この心の動き自体は人間の一生に付きまとう普遍的なものではないかと思います。

そして、努力してもうまくいかない事や、よく見てみるとそのゴール像が自分の思い描いていた理想とはズレたものであったと気付く事も良くあります。そうすると、人はまた、昨日考えていたことなどけろっと忘れて新たなゴールに気持ちを切り替えたり、しぶしぶ目標を追うのを諦めたりします。

ここまでは一般的に、自己啓発やアドバイスなどでも言われがちな事柄でしたが今回書きたいのは主に「忘れる」効能と作用についてです。必死に考えたり研究していたことでも、時間がたってふりかえってみるとふと忘れていたりしますよね。この過程とそれに続く、一度忘れ、無意識下に退いていた知識を思い出す過程は、更にその上に知識を積み重ね、理解を深めていくために重要な働きだと思いました。

目標に向けて中長期的に努力するというとき、絶対に何かを達成しないといけないときなど、ひとつの事に熱中して自分の力を伸ばし、気付けば時間がたちどういう動機や疑問をもってその着眼点を持ったのかを忘れることがあります。しかしそういう時は、大抵無意識にその知識を今の自分に活かせているものです。結果として気付かぬうちに成長を遂げていた、ということがあります。これは理想的な成長ではないでしょうか。しかもこれは何においても言えることで、勉強や仕事と言った限定的な場面に限られません。

何かを頑張るときにはやる気や覚悟が必要です。そして、本当にやりたいことがあって、それを諦めないで何度も挑戦し、ものにしていくという過程において、節目の一つ一つが忘れられないイベントになります。感情的にも悔しい、もしくは嬉しい思いが付与された記憶として胸中に定着し、その営為自体が自分の人生の一部となり始めることで、当初の目標の達成に一歩また一歩と近づくことができるという仕組みになっているのだろうと感じます。

アドラー心理学では、トラウマとの向き合い方がフロイトの心理学とは異なり、トラウマは自らが心の中で作り出している心理的現象だと捉えられる、ということが有名な『嫌われる勇気』という本の中に書いてあります。

そういう意味で、本当の意味で何かタスクに立ち向かっていく根性と覚悟のある人にとっては、そういったトラウマ的な出来事でさえも一時的なもので、あとで結局は乗り越えられていくべきことだと認識されているのではないでしょうか。一度目の遭遇では非常に衝撃的で思い出したくないような思い出として記憶に刷り込まれても、本当にそれがその人のやりたいことであるならばその人はその場所に戻ってきて、二度目からは同じトラウマ、そして同じ問題に再チャレンジしていくことになるはずです。

人は、「やりたい」と思ったことに向け努力します。それが簡単に実現するほど生きるのは簡単ではありません。トラウマもできます。トラウマを経て、そこにはもう戻らないと決めるのであればその目標は人生における別の目標に置き換えられますが、そこに再び向き合うと覚悟ができるのであれば、それを経て目標は実現に一歩近づく事でしょう。アドラー心理学でいう、「やりたいと思ったことを、人は自分の意志で達成することができる」とは、僕の解釈によればそういう過程だと思います。

人の成長とは、決して予測可能なものでも生易しいものでもありませんし、再現性もありません。最後は根性論的な言葉で片づけられてしまう事も多く、そうすると成長の説明は納得のいきにくいものになります。しかし、現実的には、人は否応なしに状況に適応したり、自分の能力を成長させることを求められます。それが生きるということです。これはずいぶん受動的な味方ですが、「成長」というプロセスを能動的に、「追いかける」目線で分析してみると、過去にできてしまった心理的な桎梏や二度と踏み入りたくないと感じるような困難な状況にすらも、自分から踏み入ってその問題を解決できるようになって、真の成長が実現できるのだと思います。

そして、その過程で重要なのが、長い時間をかけてじっくり取り組むことと、なんなら一度すべて覚えたことを忘れたりして、再び戻ってきたりする方が成長効率が良いと思われることです。

まあ、結論は、今日も明日も地道に頑張るしかないな、という所ではあるのですが。それでは、次の記事でお会いしましょう。

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