異世界から「帰ってこない」話は、何も最近の発明ではないという話をしたい

最近、こんな話題があったんですが、読んでいるうちに「いや、違うだろ!そもそも初期から帰ろうとしていないだろ!!『火星のプリンセス』を読めよォ!」という思いが湧いてきたので、記録を残しておきます。

傾向を考えるのは楽しいけど、慎重に

誤解しないでほしいんですが、こういう「最近こういうのが流行りなんじゃね?」みたいな話は私、大好きなんです。教室の片隅とかで、椅子の背もたれを抱え込みながら、友達と延々と語りたいですよね。マジでわかる。そういうのを実現させてくれるインターネットありがとう。

でもでも、でもですよ、それって言ってみれば与太話みたいなものであって、「なんとなくこう思う」レベルの仮説にしか過ぎないわけじゃあないですか。なのに、検証プロセスをすっ飛ばして「最近の若い子はこういうことを考えているんだ!」みたいに安易に世相を斬ってわかった気になるのはちょっと待った方がいいんじゃないの?って思うんです。

そういうのって、得てして単なる偏見による決めつけだったりしますし、「〇〇かもしれませんね」というだけの話が、いつのまにか「〇〇だ」みたいにその人の中で確定しちゃったりするわけで。

人間の感覚ってのは間違える。私もそうですが、実際に調べてみると、事前のイメージと違って反例が見つかったり、統計取ってみたら対して違い見つからなかったな……ってのは本当によくある。
そういう錯覚を防ぐために、検証ってプロセスが入るわけで、例えば今回みたいな話だと、作品数のリストと、それがどれくらい売れたか(発行部数など)の数字をかけた指標みたいなのを作って考えないと、分からないわけじゃあないですか。

別に、「最近は異世界に行っても帰ってこない作品が(数十年前の過去と比べて)増えている」という主張に対して反論したいわけじゃないです。実際のところ流行ってのはあるわけで、調査して見ると、そういう傾向ははっきりでてくるのかもしれない。私もそういや「ゼロの使い魔」ではそういう展開でお話まわしてたなぁ……という記憶はありますし、ここはぜひ調べてもらいたい。

でもそういう調査はまだしてないわけですよね? その前から決めつけるのはやはり危険だと思うんですよ。判断を鈍らせる。そして何よりも、「最近の発明」という意見には、全く賛成できません。だって100年前から、そうでない小説があるわけですから。

ということで、今日は、一世紀前の小説「火星のプリンセス」を題材に、「むしろ異世界に行ったっきりの作品が元祖だったんだぜ!」という話をさせてください。

元祖、異世界転生「火星のプリンセス」

「わたしは別世界の人間ですよ。あなたがたと共通の太陽の周囲をまわっている地球という大きな星からきたのです」

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

「火星のプリンセス」SFオタクなら、絶対に一度は聞いたことのある作品でしょう。ひょんなことから火星に飛んだ主人公が、持ち前の勇気と腕っぷしで大暴れ!美しき火星のプリンセスと恋に落ち、火星を救うのだ!みたいなそんな筋書きです。

作者のバローズがこの作品を書き始めたのが、1911年(第一次世界大戦前!)その後改稿し、雑誌に掲載され、一冊にまとめられて出版されたのが1917年という、まさに一世紀前の古典SFなわけですが、まあこれがとんでもない大ヒット。大量のフォロワーを産み、現代のエンタメにも多大な影響を与えている作品なんです。

今回、この記事のために再読したんですが、「すべてのパルプはこの作品をリスペクトしているのでは?」ってぐらいパルプ濃度が高く、実家のような安心感を覚えました。四本腕の火星人!さらわれるヒロイン!謎の怪光線!元ネタの元ネタぐらいの存在なので、考えてみれば当たり前なんですけれどね。

何しろ100年前の作品なので、インディアンは悪漢で出てくるし、倫理観がぶっ飛びすぎて現代人が見ると「お前らおかしいよ!」ってなることが多々あるので、万人にはおすすめできませんが、パルプ的な作品が好きな人は一回読んでみると色々とにやりとできるのではないのでしょうか。逆噴射先生とか好きそう。

さて前置きが長くなりましたが、この「火星のプリンセス」実は異世界モノとして考えると、ものすごいしっくりくる内容なんですよね。

主人公はどうやって火星へ?

それの最たる例が、主人公がどうやって火星に行ったか?って部分なんですが、これが大変興味深い。ロケットとかじゃないんですよ。なんと、幽体離脱なんです。

順を追って説明しましょう。南北戦争を南軍で戦った大尉、ジョン・カーターは、戦後金鉱を探しにアリゾナを訪れます。そこでインディアンに襲われ、洞窟に逃げ込むのですが、そこで疲れて横になっていると、突然不思議な体験をします。

そのとき、月光が洞窟を皓々と照らした。なんと、わたしの目の前に、わたしのからだが、いままで何時間も倒れていたままの格好で外の岩棚にじっと目をむけ、地面にぐったり手をのばして横たわっているではないか。わたしは最初その脱け殻に目をやり、次にわが身を見おろして呆然とした。そこに横たわるわたしは服を着ているのに、立っているほうのわたしは生まれたときと同じく一糸もまとっていなかったからだ。

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

なんと、幽体離脱してしまうんですね。ジョン・カーターはそのまま洞窟の外に出て、星空を眺めます。するとそこに火星が見えて思わず手を伸ばした瞬間

その星に対するわたしの憧憬は、抑えきれぬほど強くなった。わたしは両目を閉じ、わたしの天職をつかさどる神にむかって双手をさしのべた。するとやにわに、道もなく果てしもない虚空に、からだが吸いこまれていくような感じがして、一瞬、猛烈な寒さと暗黒が訪れた。

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

こんな感じで肉体を地球に残したまま飛んでいくんですね(全裸で)。科学的な手法で火星をめざすというより、星の世界に召喚された。ってイメージのほうが近い。だから、火星に行く方法はかなりファンタジー成分が強いんです。おお、異世界転生っぽい!

重力の弱い星で筋肉無双だ!

火星に飛んだジョン・カーターですが、いきなり、腕が四本で緑色をした火星人、サーク族に捕まってしまいます。サーク族は野蛮な種族として描かれているのですが、武を重んじる文化があります。

しかし、なんということでしょう。火星の重力は弱かった。地球生まれのジョン・カーターは、飛べば10メートルはジャンプでき、大抵の火星の生物に対して無双できてしまうんですね。

この「重力の弱い星で無双する」ってやつ、藤子・F・不二雄先生もドラえもんで何回か使っていたネタですけど、これも遡れば「火星のプリンセス」が元ネタなのが凄い。(といっても、探せばさらに前の時代に元ネタがあるのかもしれません。ご存じの方いらっしゃったら教えてください)

喧嘩を売ってきたサーク族の一人をぶちのめすと、サーク族は大変驚き、カータを族長として迎えてくれます。そこでカーターは捕虜になった赤色人の王女デジャー・ソリスに出会い、彼女のために大冒険を繰り広げる……というのが大まかなストーリーです。

しんのおとこ、カーター

で、始まる大冒険ですが、とにかくこの作品、100年前という時代もあってか、「しんのおとこ」概念がカルピスの原液のような濃度で襲いかかってきます。

まず、基本的に全裸です。火星に転移した時から全裸だったんですけど、途中のヒロインのセリフに「地球の人はなんで体に布をつけているのか」というものがあるので、火星の人は基本全裸と見ていいでしょう。しんのおとこにしゃらくさいファッションなど必要ないのだ!(挿絵とかだと服を着せられているパターンが多いみたいですが、あくまでも本文はそうではないということで)

また、しんのおとこが活躍する火星も、それにふさわしく危険な世界として描かれます。

火星人のうち病死するのは千人のうちひとりくらいのもので、だいたい二十人くらいが自発的に巡礼の旅に出る。あとの九百七十九人は、決闘や、狩猟や、飛行や、戦争で死亡する。

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

成人してからの火星人の平均寿命は、だいたい三百年くらいだが、横死の原因となる種々の手段がなければ千歳近くまで生き延びる。この惑星の天然資源は減少の一途をたどっているので、治療術と外科手術のめざましい発達によって引き延ばされてきた寿命を、今度はくいとめる対策を講じる必要にせまられてきた。そこで火星では人命が軽視されるようになり、そのあらわれとして、危険なスポーツがもてはやされ、さまざまな部族間ではほとんど戦争の絶えまがない。

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

緑色人が有するユーモアの概念とは、ユーモアが笑いを喚起する刺激物だとするわれわれの概念とは大幅にかけ離れている。この奇怪な生き物がいちばん陽気にはしゃぐのは、他人の断末魔の苦悶を見るときで、彼らのあいだでありふれた娯楽の最たるものは、巧妙かつ身の毛もよだつ方法で戦争捕虜をなぶり殺しにすることなのだ。

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

男性のほうは、もっと高度な戦争技術、つまり戦略や大部隊を指揮する方法を叩きこまれる。また、必要に応じて法律を制定する。緊急事態が発生するつど新しい法律を一つつくり、先例に縛られずに法を執行する。

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

バカの惑星か???と思わず声が出てしまうぐらいに、危険な世界であることがお分かりでしょうか。メキシコの荒野よりも危険な火星。しんのおとこが活躍するにはこの上ない環境です。(てか、先例に縛られない法律って、ただの思いつきじゃ……)

さらに、バローズはとにかくスケールのでかい嘘をつく男。火星のラジウムライフルは、なんと射程500キロという、バカが考えたような射程を持っています。

銃身の金属はアルミニウムと鋼鉄を主とした合金で、彼らは地球人におなじみの鋼鉄をはるかに上まわる硬度にまで鍛練する方法を知っていた。このライフルは比較的重量が軽い。そして小口径で、爆発力のあるラジウム弾が使われ、銃身もかなり長いので、地球では考えられないほどの射程距離を持つ必殺の武器となっていた。理論上このライフルの有効射程距離は五百キロだが、実際には無線探知器と照準器をつけて使用するので、せいぜい三百キロどまりである。

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

なお、ここで言う「ラジウム」は火星の言葉を訳すためにふさわしい言葉がなかったため、この単語を使った……ということが明かされていますので、地球のラジウムとは違うんですが、それにしても、500キロってあーた、東京から大阪までですからね。戦艦大和の主砲でも射程42キロなのに!?(重力が弱いのもあるとは思いますが)

なお、こんなスゴイテクノロジーを持っているのに、なぜか基本ウェポンは剣だったりします。ここは出版当初から流石におかしいやろ!と100年以上擦られてきたネタなんですが、読んでいるときはそういう矛盾点を感じさせない大胆な嘘の付き方をするから、すごい才能なんですよね。

ちなみに、カーターはしんのおとこなので、科学的な知識とか、テクノロジーとか、内政チートとか、そういう小賢しい手法は一切取らないのも特徴的です。全ては筋肉で解決できるんだが????

といっても、カーターは決して馬鹿ではないので、頭脳のひらめきを見せることもあり、四本腕の猿の怪物を前にした時も

なるほど石棒は持っているが、相手の太い四本の腕に対抗してなにができる?  たとえ最初の一撃で腕の一本をへし折っても――相手が石棒を受けとめるだろうと読んだうえでのことだが――わたしが体勢を立てなおして二度目の攻撃に出る前に、残りの腕をのばして、わたしをあっさりかたづけられるのだ。

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

4-1 = たくさん

という高度な数学的思考を見せてくれたりします。まあ結局筋肉で解決するんですが。

カーターは地球に「帰りたい」とは思わない

んで、これが今回の主張なんですが、なんとこの作品では、カーターが地球に帰ることがストーリーの主軸にならないんですね。これを確かめたくてわざわざ再読したので確かです。

ただ、一箇所。地球のことを思い出すシーンがありまして、そこの部分を見ると、「地球に帰りたい」という感じには見えます。公平のために引用しておきますね。

すると、いままで考えてもみなかったことが走馬燈のように頭に浮かびはじめた。故郷の人々はどうしているだろう、と気になりだしたのだ。久しく会っていない。わたしと縁の深いカーター一家はバージニアに住んでいるが、わたしはえらいおじさんというか、なにかそういった愚にもつかない存在とされている。わたしはどこへ行っても二十五歳から三十歳までのあいだでとおっているが、えらいおじさんなどといわれると、まったくくすぐったい気がする。わたしの考え方や感じ方は、少年とちっとも変わらないからだ。カーター家には幼い子供がふたりいる。わたしはこの子供たちを愛しているし、子供たちのほうは、この世でジャックおじさんほどえらいひとはいないと思っている。月が皓々と輝くバルスームの天をいただいて立っていると、彼らの姿がはっきりとまぶたに浮かんだ。そして彼らのことを、ひたすらなつかしく思った。これほどひと恋しい気持ちになったのは生まれて初めてだった。生来、放浪癖のあるわたしは、家庭という言葉の真の意味を知らなかったが、カーター家の大広間はいつもわたしにとって、家庭という言葉が意味するすべてのものだった。いま、この冷酷で薄情な種族の中へ放り出されたわたしは、はるかなカーター家の広間に思いをはせるのだった。

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

ここだけ読むと、望郷の念に駆られる……ように思えるんですが、このあと、地球に戻る方法を探したりは一切しません。地球のことがでてくるのもここぐらいのもので、後半ヒロインと結ばれたあたりでは地球のことなんて完全に忘れ去られてしまっています。

なので、実は元祖とも言えるこの作品では、「主人公は地球に帰りたがらない」のだと考えて良いでしょう。

ところがここからが、ややこしい。混乱させて悪いのですが、一作目のラストで、なんとジョン・カーター、地球に帰ってきてしまうんです。

一世紀前の異世界おじさん

火星で10年を過ごし、ヒロインと結ばれたカーターでしたが、火星の大気を作り出す装置にトラブルが発生し、火星が滅亡の危機に直面します。カーターは装置を直すために決死の旅に出て、そして装置につながる扉を開けたところで、力尽きて倒れてしまいます。

そして、次の瞬間、気がつくと、カーターは10年前に倒れていた洞窟の中で目を覚ますのでした。

と、こういう感じで、望まずして地球に帰ってきてしまうんですね。一見すると、夢オチ(洞窟の中で10年の時間が経過しているわけですが)にも見えるんですが、とにかくカーターは帰還する。そして、自分の体験した驚異の世界を記し、甥であるバローズ(カーターは作者本人のおじさんという設定なのです)にその書類を遺言で預け、バローズがそれを出版した。という流れになるわけですね。

だから、言ってみれば「異世界おじさん」の構図そのまんまなんですね。不思議な世界に行ったおじさんが語る物語ですので。

やっぱり帰ってくるんじゃん!」と思われるかもしれませんが、これはあくまでも一巻での話、その後の続編では、再び火星に飛び、大冒険を繰り広げそこから先は完全に火星に移住してしまいます。(時々、なんらかの方法で戻ってくることが二巻の最初で仄めかされますが)

一体どうしてこんな構図になったんでしょう?続編では火星に行ったっきりなわけで、一巻でもそうすればよかったのに……とも思うんですが、そうなると「一体これはだれからこの話を聞いたんだ?」みたいな話になるのを嫌ったのでしょうか? 当時の小説の受け入られ方がどうだったのかはわかりませんが、完全フィクションって概念が受けいられれていなかったのかもしれません。それはともかく、大体の感じは掴めたでしょうか。

他にもエドモンド・ハミルトンの「スターキング」は二巻で完全に異世界に移住してしまいますし、ナルニア国物語だって最終巻では永住するじゃないですか。他にも児童文学だとネシャン・サーガだって行ったっきりですしね。なので、行ったっきりの作品、戻る方法を探さない作品ってむしろ多いと思うんですよ。

むしろ、日本の作品は大長編ドラえもんとかのイメージに引っ張られているんじゃないかな〜〜なーんて、私は思うわけですが、実際のところどうなんでしょう? ま、これも検証したわけじゃないので、いわば一種の雑がたり。そうかもね。ぐらいに捉えておくのが良いでしょう。

最後に、再読して思ったこと

この記事のために久々に再読したんですが、テンポの良さを再確認すると同時に「ああ、これってやっぱSFなんだな」と思ったんですよね。

いや、「火星のプリンセス」はSFじゃない!みたいなことって、散々言われてきたんですよ。麗しきプリンセスがでてきたり、剣で戦ったり、緑色の火星人が出てきたり、SFっていうよりパルプでしょぉ??みたいなね。実際科学的要素があるか?と言われると、困ってしまう部分はあります。大体幽体離脱で火星に行くし、むしろジャンルはファンタジーでしょ?とか言われると、これがヒロックファンタジーに影響を与えていることもあり、否定できないと思います。

でも、一つ。未知の世界を描く時、本当に楽しそうに描くんですよ。火星にはこんな人間がいて、こんな種族がいて、こんな文化があって……。資源が枯渇して滅びゆく世界という設定の火星も良いですし、途中で出てくる第8光線みたいな概念もすごくワクワクします。

中心には種類のちがった九色の光線を発する、直径三センチほどの不思議な石がはめてあった。地球のプリズムの七色と、あとの二つは見たこともなく名前もわからない美しい光線だった。盲人に赤という色を説明して聞かせるのと同じで、その光線を説明するのはむずかしい。わたしには、ただ極度に美しいということしかいえないのだ。

創元SF文庫 厚木淳訳 『火星のプリンセス』 より

どんな色なんだろう?って想像しちゃいますよね。その時ちょっとうれしくなる。未知への好奇心っていうんでしょうか?想像すらできないことを、ふっと提示してくれる。「あ、自分がSFが好きなのってこういう瞬間があるからなんだな」って実感するんですよ。

倫理観はヤバいし、今なら完全アウトな表現が盛りだくさんな作品なんですが、例えばこの作品を読み終わった子供が、ふと夜空を見上げて、そこにまだ見ぬ火星の世界を想像した時、そこに無限に広がる空想の世界を見た時、その胸の中に宿る憧れこそが、この作品をSFたらしめるものなんだなぁと、そう思うんです。


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