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感想:子連れ句会2・山眠る頃2020.12.27を読んで

年末のある日、「子連れ句会」さんのネットプリントが配信されるとのツイートを拝見し、プリントできるのを楽しみにしていました。じつは個人的に「子連れ句会」さんの活動に対する興味と、いつの日か参加してみたいなぁという淡い希望を持っています。それには俳句と出会ってからの私自身の経歴も関係しているのですが、そのあたりは別の機会に書きたいと考えています。

さて。プリントしてみると、どれも興味深い句ばかり。一句一句がパッと見ただけでも「短歌だっけ?」というくらいにゆたかな世界を構成していました。せっかくなので、鑑賞の訓練を兼ねて、気になった句について参加者お一人につき一句ずつ、コメントを書いてみたいと思います。

※なお、文中に挿入されている画像は、筆者が句のイメージに近いものとして追加したものです。「子連れ句会」とは関係ありません。

※今回、ネプリの期限1/3に間に合わず、あきらめかけたところを笠原小百合さんに助けていただいたおかげで無事にプリントすることができました。この場をお借りして御礼申し上げます。

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髪硬き子が初雪を待つてゐる  西川火尖

「髪硬き」「初雪」の対比が印象的。「かたき」「ゆき」からくる韻律とリズムがまずもって耳に楽しい句。次いで髪と雪との色彩が目にも楽しい。髪はもともとの髪質がそうなのかもしれないが、短く切った男の子の髪とも受け取れる。その子が初雪を待っている。ふうわり、ふうわりと降る雪を待っているのである。いつまで待っているのか。じっさい、子どもはいつまでも待つのである。うちの子など先日「もう3年くらい待ってる気がするんだ……」とぼやいていた。永続性を感じさせる「ゐる」もよく効いている。

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ベルリンの壁の欠片や寒椿  神谷美里

ベルリンの壁、というものを若い人はどの程度知っているだろう、とまずは余計なことを考えてしまう。1961年~1989年までの28年間にわたり西ドイツと東ドイツを区分したベルリンの壁。突然の封鎖に仕事や家族を喪う者が多く出た。その壁を越えようとするものは容赦なく銃殺された。のちに壁が崩壊すると、「壁の欠片」は観光土産として世界中に散っていった。中七までの「ベルリンの壁の欠片」はそうした非常に重い歴史をモノクロームのように描く。そこへ寒椿を配した色彩のゆたかさが光る。

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冬枯にヘッドライトは流浪する  結

冬枯れの山道で夜間に車を走らせると、浮かび上がる景色はことごとく裸木ばかりであって、さまざまな感覚が鈍化していくかのように思われることがある。この状況を「冬枯」の側からみると、ヘッドライトはたしかに流浪しているというほかない。どことなく、宮沢賢治の童話であるとか、あるいはルネ・マグリットの絵画の世界観にも通じるような気がする。流浪するヘッドライトは、やがてどこへ行き着くのだろう。「する」という言い切り型の句末だけに、その先に対する興味が俄然湧き起こる。

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煙草の火分けて離るる冬ざるる  亜久津歩

映画やテレビですら喫煙シーンを見かけなくなった、という事実に気づかされる。昔は映画やテレビはもちろん、巷にありふれていた喫煙シーン。生活の非常に近いところに煙草の煙が流れていた。それこそ電車の中でも喫煙できたし、いまでは信じがたいことだが電車の床には吸い殻がたくさん落ちていた。ところで「分けて離るる」とは近しい関係性で、直感的に恋仲を連想してしまう。離れる、冬ざれからくるぽつねんとした感じを「るる」を繰り返すリズム感と4匹の猫のようなあいらしく丸い字面で相殺した。感傷過多にならない絶妙な塩梅があると思う。

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白菜の尻ふくふくと積まれある  梅田実代

白菜というと、もっぱら1/4カット白菜を繰り返し購入してしまう坂西家だが、ここでの白菜はカットされていないもの。堂々とした実ぶりの採れたて白菜であって、座五の「積まれある」という言い切りからすると畑に横付けされた軽トラに、今まさに荷積みをされつつあるところかもしれない。その丸みを帯びた形から「尻」という表現が非常にマッチしている。「ふくふく」もいい。白菜の実りが申し分ないことが実感として伝わってくる。読めば思わずカットされていない白菜を買い求めたくなる一句。

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サイン帳に亡き友の文字冬苺  三倉十月

サイン帳、これも懐かしい。SNSのない時代は、こうしたサイン帳が友達どうしを繋ぐツールとして存在していたのだった。そしてそのページの中には、いまは亡き友達の文字も並んでいる。冬苺を媒介として、こうした思い出が芋づる式に引き出されてくる様子が伝わる。それにしても冬苺である。どこか心に抜けきらない棘がささっているかのようでもある。普段は心の奥底にそっと蓋をしておくのだけれど、忘れがたい、忘れてはいけない記憶を詠んだ一句である。

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立冬のタイムカードに打刻音  諸星千綾

時間の流れは一様であるようでいて、じつは濃淡がある。というと「いや、一様だろ」と突っ込まれそうだが、ここでは時間感覚の意。この「立冬」という季節設定が一句の大きな要となって働いている。機械的な打刻音は、むろん1年を通して変わることはないのだが、立冬ともなればその趣きはすでに通年仕様の響きには感じられないのである。賞与、クリスマス、大晦日。整理整頓、プレゼントや賀状の準備などやるべきことが山となって押し寄せる。そんな怒涛の年末への予感を伴う音。いわば「年末アラート」のような響きとなって、床や天井、キャビネット、そして打刻者に響くのである。

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三つ脚の椅子に靴下冬に入る  後藤麻衣子

一般的な椅子といえばやはり四つ脚をイメージしがちなところを「三つ脚の椅子」との出だし。このアンバランスさに、思わず目を奪われる。これは井戸に堕ちる子を救わんと手を差し伸べるのと同じ心理ではないかと思われる。靴下は人間の履く靴下ではなくて椅子用の靴下である。床面を傷つけることのないように履かせるもので、年間通じて使用するものだけれど「冬に入る」に不思議なほど適合する。総じて、冬に入る季節とはアンバランスがバランスを保つ特異点なのかもしれない。

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立冬や駅間長き高崎線  松本てふこ

群馬出身の筆者にとって、高崎線は身近な存在だ。今でこそ「湘南新宿ライン」「上野東京ライン」という呼称が広まったが、地元民にとってはやはり高崎線と言った方がしっくりくる。関東平野の北限に近い高崎から上野方面へと走る高崎線に乗ってみれば、「駅間長き」の実感を強烈に味わうことができるはずだ。季節はもちろん、沿線の木々が裸木になる冬が1番適している。間接的に関東平野の広さも感じられる句。「えき」「ながき」「たかさき」という韻律も音読に快い。同じ作者の句「はつふゆの耳はむといふ愛し方」も類まれなる佳句としてあわせて記憶したい。

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混信に混じる異国語冬の雷  榊倫代

「混信」とは無電(無線電話)、テレビ、ラジオにおいて異なる局の電波がまざるもの。混信そのものにすでにノスタルジックな響きがある。一般的に混信からイメージされやすいのはダイヤル式のラジオではないだろうか。中学生の頃、電子工作でラジオを作ったことがある。自作の木型の枠に組み立てたラジオをとりつけたものだ。夜の手持無沙汰にダイヤルを回すと、日本語に混じってどこの国の言葉かわからない異国語と謎な音楽が流れていた。そういえば、あのラジオはどこにいったのだろう。捨てたのかもしれないし、まだ実家のどこかで眠っているのかもしれない。

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鯛焼きとこの街隔つ紙袋  芹沢雄太郎

技巧を凝るのではなく、視点のユニークさが光をもたらすようでたまらない一句。ドーナツの穴から空を覗く様な視点はわりとよくある視点なのだけど、鯛焼きと街を薄皮ならぬ薄紙1枚が隔てているという視点はどう考えたってあたらしい。鯛焼き、紙袋といった”素材”をしっかりと味わうことができる点もたのしい。鯛焼きは「たい焼き」でなくて良かったし、紙袋は「ポリ袋」でなくてよかった。たったそれだけのことが句作においては光年単位での差になると考える。長く記憶したい句である。

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踏切の両側殊に息白く  上山根まどか

踏切は断絶しているもの、というイメージがある。引き合いにだすのもおこがましいが拙句に「遮断機の此方彼方や夏の果」というものがある。小学生の頃、同じ学校の兄弟が踏切事故で亡くなったのを思い詠んだ句だ。私事はさておき、この場合踏切の両側には二通りの解釈が立つ。線路を挟んだ両側か、或いは道を挟んだ両側か。どちらにしても白い息が物語を紡いでいってくれるという信頼がおける句であり、小説にも匹敵する余白をまとっているといえる。

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おわりに~総評にかえて~

以上ご紹介した句はごく一部であって、ここに書けなかった句の中にもすばらしい作品が多かったです。「子連れ句会」参加者のレベルの高さもさることながら、和気藹々と高めあって俳句を詠まれている様子が伝わってきました。私も俳句を詠む一人として大いに刺激を受けましたし、ますます「子連れ句会」への興味も募っています。まずはお一人お一人の参加者の方々、活動をけん引されている西川火尖さんに感謝の意を表したいと思います。すばらしい俳句の数々、ありがとうございました!

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