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秀句巡礼番外・句具ネプリ冬至編(後編)

吊革も吾も斜めや十二月 笠原小百合

一年の締めくくりである12月。色々な雑事、用事が殺到して、日常生活は自然慌ただしくなる。そういえば、この一月、通勤電車の非常停止が多かった。うち一回は吊革を掴み損ねて見事に2メートルくらいは飛ばされてしまった。掲句の「斜め」は、受け取る人によって向きを変えそう。用意周到に前のめりな方もいよう、後手後手に忙殺される方もいよう。私は後者。来年こそ前のめりに色んなことにチャレンジしたい。

ずいぶんともこもこしたる歳暮かな このはる紗耶

「ずいぶんともこもこしたる」の上五・中七が良い。口語がいつの間にか文語変化してゆく様は、騙し絵の階段を辿っているかのよう。それはまるで時間的な経過すら感じさせる。歳暮を贈り、贈られる。その関係性の変わらない様、変わりゆく様。人と人との繋がりの温かさまで含むような、優しい句である。

枯野にて鍬一丁の西明かり 處容

枯野の一情景。ものすごく何もない。何もないからこそ、雄弁なのである。省略という切り取りの極致としての鍬がある。そこに残された残照に感じる温かさ。人によってはこういう句を「古くさい」と言うだろうか。しかし、平明な句ほど長く生き残る句だとも言える筈だ。

冬蠅の碧輝ける聖夜かな 佐々木のはら

聖夜に舞い込んだ一匹の蠅。その「碧輝ける」と詠んだところに興味をそそられる。じっと見入ってみなければ、こうは詠めない。冬蠅もまた、神の創り賜いしもの、と思えばこそで、それゆえに「聖夜」と「冬蠅」が響き合うのである。

山眠るアンモナイトをあたためて 村瀬っち

冬のしずかな山である。アンモナイトを温めるのであるから、隆起してできた山なのかもしれない。しかし、アンモナイトについていつ頃生息していたのかなどと学術的な考察をする必要はない。ここでは、単に、かつて海底であった所が今はしずかな山となっている情景をのみ思えば良いのである。

歯磨粉太く出でけり年始 鈴木沙恵子

お正月は歯ブラシと歯磨粉を新調する家庭も多いのではないだろうか。なんでもそうだと思うのだけど、新調したばかりのものは思いがけずたくさんが出てしまうことが多い。もったいないなと思いつつ、しかしもう後の祭りでその状態を受け入れざるを得ない。その心持ちは、始まってしまった新年への思いとダブる気がする。

初氷白湯の温みの胃のかたち 枝月

初氷で切れる余韻。肌に刺さるような寒さと、飲み込んだ白湯が胃の腑に落ちてゆく感覚。寒さと温もりの対比を詠んだだけの句であれば、よく目にするところかと思ったが、この句の眼目は「胃のかたち」にある。胃の形がわかるほどだから、例えば「こくんと飲んだ」という程度ではなくって「ごくごく飲んだ」ということになろうかと思う。寒さゆえに白湯を求めた、その結果として温もりをかたちとして捉え、そのことがまた寒さを際立たせている。相乗効果のうまく効いた句である。

駱駝からもらふ一瞥冬紅葉 海音寺ジョー

上五・中七と下五の印象の鮮やかな取り合わせに着目した句。駱駝と冬紅葉の取り合わせは、微妙な均衡という点で緊張感があり私は良いと思うが、成功とみるか勇み足とみるかは人によるかと思われる。「もらふ一瞥」はうまい措辞。

以上、句具ネプリの特に好きな句を挙げて、その鑑賞を試みました。作者の意図に沿わないところもあったかと思います。拙い文で恐縮ですが、最後までお読みいただき、ありがとうございます。

もし「そうじゃない」という作者さんの声や、「私はこう読んだけど」というようなご指摘・ご意見をいただけることがあれば嬉しいです。

それでは皆様、良いお年をお迎えください!

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