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自由の難しさ

 社会復帰のために、体力をつけるために早足ウォーキングをしている。それと、認知機能の改善のためになにか……と思ったところ、通っているクリニックの先生から間違い探しやパズルゲームなどを勧められた。四の五の言わずにやればいいのだろうけど、間違い探しはどうもこっ恥ずかしいし、パズルゲームはあいにく好きではない。

 小説を書いているので、それではどうかと訊くと、小説は感情が入るからあまり良くないらしい。エッセイや詩、短歌、俳句などはいいらしい。それならば、と、エッセイを書こうと思ったのだけど、さてはて、なにを書けばいいのかわからない。

 昔、学校で自由作文があったときは嬉々として書いていたのに……。いまでも文章を書くのは好きだけど、自由に書いていいよ、という状態だと困る。小説は自分の中でテーマや主張があるから書けるけど、エッセイは難しい。それでもこれも社会復帰のためだと、やっとこさ湧いてきた気力で、特になにも考えずにパソコンに向かっている。

 自由に書くのがこんなにも難しいことだったとは。それでもどうにかこうにか、こうしてここまで書けている。やっぱり書くのは楽しい。

 自由に生きるのは、もっと難しい。そして、きっと楽しくない。というより、「自由に生きる」というのは机上の空論だ。人は多かれ少なかれ、制限をされないと生きてはいけない。そもそも「よし、これからは自由に生きよう!」と宣言して、実行しようとしてもまずなにから始めればいいのか。自由なのだから、好きにすればいいのに、おそらく途方に暮れる。退屈だと感じる。きっとそれは死にもっとも近い状態だろう。

 「人間は社会的な動物だ」とはよく言ったもので、なにか制限をされないと生きてはいけない。人の目だったり、法律だったり、さまざまな制限の中で。その制限こそが社会なのではないか。

 この文章も、自由に書いているようで、やっぱり人の目を気にして、言葉を選んで書いている。逆に、そうでなければ書くことができない。

 なんだか堅苦しくなってしまったけれど、つまり、そういうことなんです。

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