未来
就職が決まった。と、同時に彼女と別れた。「大学の受験勉強に専念したい」と言っていたが、どこまでが本当なのか。おれは一応、がんばってね、とLINEで送っておいた。
やれやれ。祝ってくれるのは両親だけか。アホみたいなペルソナで就活を乗り切ったおれに、お疲れ様の一言でもあってもいいもんじゃないか?
おれは来週には引き払う学生向けのアパートでアブサンをソーダで割って飲んでいた。つまみはない。そんな金はない。幻惑的な甘みのおかげでスイスイ飲んでしまう。どうせ自宅なんだ。潰れても大丈夫さ。
と、気がつくとテーブルの向こうに青白い顔をしたおれがいた。それは、間違いなくおれだった。
「よう、あんた、なにしてんだ?」
それはこっちが訊きたいよ。
「彼女に振られたんだってねえ、みじめなもんだね」
おれは黙ってアブサンをすすった。
「バイトしながら大学に通って、卒業したら同棲も考えてたんだろう? ははっ、でも、お前はそれでいいんだよ」
「なんだ……なにが言いたいんだ」
「あのアバズレ……おっと失礼、君の元彼女は、バイト先の先輩とずっと関係があったんだよ」
「あっ……えっ……、なんでお前がそんなこと知ってるんだ」
「おれは、10年後の君だからだよ」
おれはとりあえず落ち着こうと、セブンスターに火をつけようとしたが、なかなかライターが点かない。
「まあまあ、落ち着けよ。――といっても10年前、おんなじことしてたっけな」
ハハハ、と男は笑っている。おれは奴に、おれにしかわからないことを訊いてみた。……全部正解だった。怖くなるくらいに。
「おれを試そうたって無駄だぜ。おれはちゃんと、10年後から来たんだからな」
「なんでまた、そんなことを」
「それは……お前がいま、ここで変わらなきゃ、10年後もずっとみじめな人生だからだよ」
おれは火の点かない煙草を置いて、奴の顔を見た。いまのおれより皺が増えている気がする。どことなく陰気臭い。これがおれの将来なのか?
「10年後のおれはどうなってるんだ?」
「さあね、10年経てばわかるよ」
「それじゃ遅いだろ! だからお前が来たんだろ!」
男はセブンスターをうまそうに吸った。紫煙が部屋に、まるでスクリーンのように白く広がっていった。
「ここになにが見える?」
「いや、なにも」
事実、煙だけでなにも見えなかった。
「セ・ラ・ヴィ。それが人生なのだよ、君」
「馬鹿にしてんのか?」
「そういうわけじゃない。ただ、真実を述べているだけだ。――これから先、君はひどい目に遭う。泥水をすすって生きていくようになる。出す拳の見つからないケンカに遭うこともある。……だけど、これだけは覚えておいてくれ。――きっと明日は青空だということを」
「明日? 今日がダメなのに急に明日から変われるのか? お前だってそうだ、10年経ってもおれは、このザマなんだろ? だったらおれは今日を生きる。メメント・モリだ。今日を大切にしないで、なにが明日だ!」
男は笑っていた。大笑いするでもなく、クスクスと、陰口を叩いているような感じで。
「メメントモらない。そう思う日がいずれ来る。そのときが勝負だ、お前。いや、おれ」
男はそう言うと、だんだんと姿が薄れていった。
「おい、どうしたんだよ」
「強く生きろよ」
男はそう言って消えていった――
――喉の渇きで目が覚めた。水を飲もうと立ち上がると吐き気がした。おれは便所で吐いた。それから水を飲んだ。
目の前には空になったアブサンの瓶。変な夢を見た。懐かしいような、苦しいような。
今日は休みだ。さて、これからなにをしようか。そう考えながら、昨日の晩酌の片付けをした。
……あいつは変われただろうか。ふと、そんなことを考えた。
ふんと鼻を鳴らせた。変われていないからいまのおれがあるんじゃないか。グラスを洗いながらそう考える。
メメントモらない。明日死ぬなんてまっぴらだ。
そう思いながら、おれはショーペンハウアー全集の11巻の続きを読み始めた。
ふと、周りを見渡す。本だらけだ。新しい本棚を買わなきゃな、と思いながら、本に目をやった。
窓からは青空から太陽の光が射し込んでいる。
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