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優しさについて

優しくありたいと思うときに、「優しくあること」と「人から良く思われたいということ」を分ける必要がある。

「優しさ」というものは、それ単体では評価されないものだから。だけど、それが一番の優しさであったりもする。気づかれない優しさ。だって「優しくされてる」って思うと、もちろん感謝の気持ちはあるけど、申し訳無さだったり、借りができた気持ちになったりするから。だから純粋な優しさは、他人からは見えない優しさのことだと思う。

だからといって優しくありたい気持ちは必ずしも純粋な優しさでなければいけないというわけでもない。射幸心が人を救うときだってある。

ここで心がけておかなければいけないのが、優しさはあくまで「おすそわけ」であるということ。つまり自分に余裕が無ければ優しくはなれない。もっというなら、余裕が無いなら、まずは自分に優しくするべきだと思う。他人への優しさはそのついででいい。そうでないと身が持たない。

人というのは思っている30倍は強欲で、優しい人はそれに呑み込まれがち。一度施すと味をしめてもっともっとと赤ちゃんのようにせがむ。それは砂漠にジョウロで水を撒いてオアシスを作るようなものだ。

実際に僕は前職で優しくあろうとした。他人のために仕事をして、他人のために残業をして、他人のために泊まり込んだ。他人のために怒鳴られた。罵られた。どんなに頑張っても「ありがとう」の言葉は無かった。むしろもっとあれをやれ、これをやれとせがまれた。そして潰れた。

潰れてしまった今、優しくありたいと思っても何もできない。健康だから働けるし、お金に余裕があるから募金ができる。

募金もしていた。ここに毎月引き落としで。→( 国連UNHCR協会について )

でも借金がかさんで首が回らなくなってやめた。いまは反対に生活保護という支援を受けて生きている。


今僕ができることといえば、こうやってモノを書くことくらいしかない。だから書いている。僕のような人が増えないように、僕のような境遇の人が元気になるために。一銭にもならないけど、自己満足かもしれないけど、僕なりの感謝の形でもある。

だから、無理して優しくあろうとする必要はない。それだと自分が壊れてしまうから。常に自分を第一に考えて、自分をいわたって、自分を愛して。そうすれば自然と人にも優しくなれるから。

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