My Happy Ending
「主文。被告人を懲役六年に処する――」
もう、どうとでもなれ。
「――理由。被告人は――」
あいつのいない人生なんて……。
「――被告人は山岸菜摘、当時三十一歳を殺害し――」
でも、これでよかったんだよな。
なあ、菜摘。
1
「佳祐、おはよー」
眠たそうな目をこすりながら、菜摘は家から出てきた。
「おっせえよ!遅刻すんぞ!」
「女の子にはいろいろあるの! そんなんだと彼女できないよ?」
「どうせ寝坊したんだろ」
「しょうがないでしょ! だったら佳祐が起こしてくれればよかったのに!」
おれはため息をついた。菜摘はいつもこうだ。
「ほら、遅れちゃうよ! 学校まで競争ね!」
そう言って菜摘は駆け出す。赤いランドセルが揺れている。ずるいぞ、というおれの声は届かず、ぼくは菜摘を追った。
しかし、追いかけても追いかけても距離は縮まらなかった。それどころか引き離されるばかりだった。あれ、こんなはずじゃ……。いつもならすぐに追いついて……。
「菜摘! 待って!」
息も絶え絶えにそう叫ぶ。菜摘は聞こえていないようだった。菜摘の背がどんどん小さくなっていく。そして、すぐに見えなくなってしまった――。
――気がつくと見慣れない天井があった。薄い布団に黴臭い毛布。寝息を立てている見知らぬ人たち。
はあ、とため息をつく。ずいぶん懐かしい夢を見た。菜摘、と小さく呟く。後悔はしていない。しかし、おれにとって菜摘のいない人生なんて考えられなかった。毎日毎日、刑務作業を粛々とこなすだけだ。――そのあとは? わからない。考えたくもない。
こつんこつんと足音が近づいてきた。足音がやむとおれは顔を上げた。看守と目が合う。お互い口を開かない。看守はまたこつんこつんと音を立てて先へ行ってしまった。
2
菜摘とは長い付き合いだった。腐れ縁とでもいうのだろうか、親友と呼ぶには照れくさいが、ただの友人と呼ぶには水臭い。お互いの家が近く、小さいころからよく一緒に遊んでいた。男勝りで口の減らない奴だった。彼女は幼稚園に行き、おれは保育園へ行った。それでもことあるごとに一緒に遊んだり、互いの家に泊まったりした。
ある夏の日の夜、菜摘はおれの家に泊まりに来ていた。布団は並べられて、おれたちは同じ部屋で寝ることになった。
「ねえ、佳祐、起きてる?」
「起きてるよ」
「保育園は楽しい?」
うん、と答えると、菜摘はそっかと言って黙りこくってしまった。
「……幼稚園はつまらないの?」
菜摘は答えなかった。寝返りをうって菜摘のほうを向くと、菜摘は肩を揺らせていた。
「泣いてるの?」
「泣いてない」
鼻をすする音がした。
「おれは味方だから」
え、と菜摘はこちらを向いた。目は潤んでいて、顔はぐしゃぐしゃだった。
「おれは菜摘の味方だから。ずっと。大人になっても」
おれはその目を見据えてそう言った。ぐしゃぐしゃだった顔が緩んでいき、やがて微笑へと変わった。ありがとう、そう言って菜摘は目を閉じた。
3
小学校へ上がるとおれたちは一緒に登下校するようになった。そのことでからかわれたりもしたが、おばさんに佳祐くんと一緒なら安心できる、と言われていたので、おれは努めて気にしないようにした。菜摘は「男子って子供だよね」とおれも含めて嘲笑していた。
「おれは子供じゃないぞ」
「はいはい、佳祐くんは大人でちゅねー」
「だから子供扱いすんなって!」
菜摘は大笑いしていた。そして
「じゃあ、手、つないで帰る?」
おれはその言葉に返すことができなかった。
「顔、赤くなってるよ?」
「なってねえし!」
彼女の意地悪な笑みがどことなくくすぐったく感じた。それを隠そうとすればするほど語気は荒くなり、墓穴を掘るのだった。
高学年になると菜摘はどんどん大人びていった。身長もおれより高くなり、髪の艶も増したように感じた。それ以外も成長が早く、おれはだんだん本気で一緒にいるのが恥ずかしくなってきた。学校でも菜摘の評判は高くなり、いままでよりも冷やかされることが増えた。彼女はといえば、男子の評判が高くなるにつれ女子から顰蹙を買うようになった。男に媚を売っているなどと、いわれのない噂まで流れた。もともと友達は多くなかったが、さらに減ってしまった。当時は彼女もやけくそになっていたのだろうか、そんな風評などつゆ知らずといった態度で、放課後になるとおれのクラスまで迎えに来て一緒に帰ろうと言うのだった。
帰り道、おれたちはよく寄り道をして川沿いの土手で話をした。その日も土手の階段に隣り合って座り、徐々に沈んでいく夕陽を眺めていた。珍しく菜摘は黙っていた。おれはなにも言わず、周りの草をちぎっては投げていた。――い。菜摘が呟いた。そして、おれにすがるように抱きつき、おれの胸に顔をうずめて泣き出した。
「みんなみんな大嫌い! みんなガキばっか!」
すすり泣く声は嗚咽に変わり、菜摘は子供のようにいつまでも泣いていた。おれは彼女にかけるべき言葉もなく、ただただ必死に抱きしめ、落ち着くのを待った。それと同時に坩堝に入れられた金属たちが溶けて混ざっていくように、名状しがたい情念が心を支配した。許せない。おれは心でそう呟いた。菜摘はおれが守るんだ。
次の日、いつものように一緒に登校した。おれは自分のクラスを通り過ぎ、菜摘のクラスまでついていった。
菜摘の席には花瓶に生けられた花が置かれていて、机には誹謗中傷がマジックで書かれていた。おれは菜摘よりも早く席に向かい、花瓶を持ち上げると床に叩きつけた。ほとんど集まっていたクラスメイトたちはさっと口をつぐみ、教室は低気圧のように重苦しい沈黙がのしかかった。
「誰だよ……」
おれは両拳を固く握りしめて声を張り上げた。
「誰だ菜摘を泣かせたのは!」
しばらく静まり返っていたが、やがて誰かがぽつりと言った。
「中田、あんたのカノジョ、インランなんだよ」
おれはその言葉に理性を失い、落書きだらけの菜摘の机を持つと、片っ端からクラスメイトをぶん殴った。
「お前らに菜摘のなにがわかるってんだ! 菜摘を泣かせる奴はおれが許さねえ!」
ぶっ殺してやる、と吠えながら机を振り回す。
「佳祐! もっとやれ!」
騒ぎを聞きつけたおれのクラスメイトたちが言っている。
「お前らも手伝え!」
おれの声に奴らはよしきた、と、菜摘のクラスメイトに殴りかかり、教室は乱闘となった。
そのあとのことはよく覚えていない。校長室に呼び出され、親に引き取られたこと、鳴り止まない電話にインターホン。おれは一週間の停学処分となったこと。そして、菜摘へのいじめが露呈し、問題となったこと。
その日の夜、菜摘とおばさんがうちを訪ねた。菜摘は全身絆創膏と包帯だらけのおれの姿を見るなり抱きついて大泣きした。
「佳祐くん、ありがとうね。本当にありがとう。あなたはなにも悪くないからね」
おばさんはそう言った。
おばさんはおれの両親となにかを話していたが、菜摘の泣き声でほとんど聞こえなかった。しばらくしてまた電話が鳴り、菜摘とおばさんは帰っていった。居間に行くと母親がひたすら謝っていた。見えない相手におじぎをしながら。そして電話を切るとはあ、とため息をついた。
「ごめんなさい」
思いもかけず出た言葉だった。その言葉に、晩酌をしていた父親がグラスを置いて、おれのそばまで来た。そして目線をおれに合わせて言った。
「お前はなにか謝らなきゃいけないことでもしたのか?」
おれはなにも言えなかった。
「お前はお前の大切な人を守ったんだ。お前は誇りを持て。あとのことは気にしないでいい。後始末は親の仕事だ」
父親は大きな手をおれの頭に乗せると、おれの髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。
4
停学の間、放課後になると必ず菜摘が訪れた。最初にうちに来たときに菜摘はおれに謝った。
「菜摘は悪くないだろ? 悪いのはあいつらなんだから」
「でも……わたしのせいで停学になっちゃって」
「そんなこと、どうでもいいよ。男のクンショーってやつだよ」
「なにそれ、ばかみたい」
と菜摘は笑った。
「やっと笑った」
「――うん。ありがとう」
停学が明け、久しぶりに菜摘と登校した。学校につき、教室へ入ると菜摘も一緒に入ってきた。
「菜摘、教室あっちだろ」
「ううん。ここであってるよ」
わけがわからないまま、おれが自分の席へつくと
「兄貴! お務めご苦労さまです!」
と、友達が駆け寄ってきてそうお辞儀をした。
「やめろよ……みんな見てるじゃん」
友達は構わずあのときのおれのことをもてはやした。どうやら学校中で伝説になっているらしい。そんなことになったら菜摘はますます教室で居場所が無くなるだろうに……。
「――っていうかさ、なんで菜摘がおれのクラスにいんの?」
ああ、と友達のひとりが言った。
「ナツ姐はウチのクラスになったんだよ」
「ちょっと! その呼び方はやめてって言ってるでしょ!」
それから卒業まで、なぜか菜摘とはずっと同じクラスだった。
5
「お前って山岸と付き合ってんの?」
「菜摘ちゃんって彼氏いるの?」
「山岸っていま好きな人いるのかな」
中学に上がるとそう訊かれることが多くなった。本人に訊け、と一蹴していたが、先輩にまで訊かれたときは困った。あんまりそういう話しないんですよ、と言っておいたが。
菜摘は自覚があるのかないのかわからなかった。いままで通りおれと通学して、放課後も一緒に帰った。おれはサッカー部に入っていたのだが、菜摘は部活には入らず、いつも校門でおれが部活を終えるのを待っていた。
「菜摘もなんか部活やればいいのに」
「んー、あんまり興味ないなあ」
「じゃあ先に帰ってればいいじゃん」
「それはそうなんだけどさ……あ」
と、菜摘はおれの腕を引っ張ると、自分の腕と組んだ。
「なにしてんだよ」
「ちょっとこのまま」
おれはため息をついた。
「汗臭いだろ……」
「がんばってる証拠だよ」
さらに菜摘はおれに寄り添い、腕を強く抱き寄せた。
「歩きづれえ」
「いいから黙って」
そのまま歩いていると、同じ制服の男たちが通り過ぎていった。去り際、舌打ちが聞こえた。なんだ、やっぱ付き合ってんじゃねえかよ。
丁字路を曲がり、彼らの姿が見えなくなると菜摘はやっと腕をほどいた。
「ふう……ごめんね。あの先輩、しつこくてさ」
「羨ましいね」
「他人事だと思って……。っていうか、佳祐だって人のこと言えないよ」
「は? なにが」
「付き合ってるんですかーとか好きな人いるんですかーとかしょっちゅう訊かれるんだから。うっとうしいったらってもう!」
「おれのところにはひとりも来ないけど……お前、まさか――」
菜摘はなんの悪びれる素振りも見せずに言った。
「――うん。めんどくさいから付き合ってる、って言ってるよ」
てめえ、と菜摘の腕を掴もうとすると、するりと抜けて走って逃げてしまった。
「おれの青春を返せ!」
菜摘は笑いながら逃げていく。あの女、ふざけやがって……。
テスト期間、部活がないのでおれは近所の公園で自主練をしていた。二年生になって、ようやくレギュラーを掴むことができた。チームの調子も良く、今度の秋の大会も結果を残せそうだった。
「お、やってるねー」
リフティングをしているとスーパーの袋を持った菜摘がやってきた。おれは両足で細かくボールを蹴りながら買い物? と訊ねた。菜摘はうん、と言って傍にあったベンチに座った。
「最近、やけに気合い入ってるじゃん」
「やっとレギュラーになれたからね」
「テストはいいの?」
「勉強もしてるよ」
おれはリフティングをやめて菜摘の隣に座った。すると、はい、とスーパーの袋からスポーツドリンクをおれに差し出した。礼を言って受け取り、飲んだ。買ってきたばかりでまだ冷たかった。
「顔、赤いよ? 熱中症じゃない?」
「大丈夫だよ、ただの日焼け」
「そっか。でも気をつけてよ」
ありがとう、とおれは言った。そして練習の続きをしようとしたときに菜摘が言った。
「わたしさ、塾に通ってるんだよね」
「知ってるよ」
おれは座り直した。
「そうじゃなくて! あのさ、それで、その……」
「……珍しく歯切れが悪いね。どうしたの」
「同じクラスの男子でさ、しつこい人がいて……」
「スパッと切っちまえよ、そんなの」
「わたしも何回も言ったよ? 彼氏がいるって。でも全然ダメなの」
彼氏ねえ、とおれはため息をついた。
――いっそのこと、本当に作ればいいのに。
「何時に終わるの?」
え? と菜摘が聞き返す。
「塾。終わったら迎えに行くから」
「いいの?」
「いいもなにも放っておけるかよ」
「うん……ありがと。――佳祐って好きな人いるの?」
「別にいないよ」
そうなんだ、と菜摘はひとりごちた。
「……菜摘は?」
「わたしもいないよ」
ふうん、とおれは言うでもなく言った。
「……でもわたしたち、付き合ってるって思われてるんだよね」
「お前のせいだろうが」
「本当に付き合っちゃう?」
「……本気で言ってる?」
「まさか」
そう言うと菜摘は笑った。おれも笑った。
「――じゃ、そろそろ行くね。ちゃんと水分補給するんだよ? 無理しないでね?」
「うん、ありがと」
じゃね、と菜摘は公園を出ていった。おれは練習の続きを始めた。
6
中学三年。おれはスポーツ推薦で進学先を決めていた。菜摘も推薦でおれと同じ高校に決まっていた。そこそこの進学校で、サッカーも強い。高校でもサッカーをがんばれば、もしかしたら大学でもサッカーができると、おれは考えていた。菜摘は内申点が良かったので、もっと上の高校にも行けたのに、その話をすると別々になったらまさか他校の佳祐の応援なんてできないでしょ、と言うのだった。
進学すると、無論おれはサッカー部に入った。菜摘はやはり帰宅部だった。中学のときと同じようにおれが部活を終えるのを待っていた。
春の新人戦が迫ったある日、練習を終えてグラウンドをトンボがけしていると菜摘の悲鳴が聞こえた。離れていたが、間違いなく菜摘の声だった。おれは声のしたほうへ駆け出していた。やめてください、と叫ぶ声がする。サッカー部の部室からだった。おれは中へ入ると持っていたトンボを振りかざし、菜摘におおいかぶさっている先輩の頭に思い切り振り下ろした。
「逃げろ!」
佳祐、とか弱い声で菜摘が言う。早くしろ! とおれは追い立てた。
それからは多勢に無勢で、おれは袋叩きにされた。気がつくと保健室のベッドで寝ていた。おれが目を覚ますと菜摘の顔があった。何人か先生もいた。その中には顧問もいた。
先生たちはおれが気を失っている間、菜摘から事情を聞いていたようで、あとから校長も来たが、おれはお咎めなしということだった。菜摘を襲った先輩たちは退部と謹慎の処分にすると校長が言った。しかし、おれはこの怪我で右足の股関節を痛めてしまい、可動域が狭くなった。そしてそれは、つまるところ、もうサッカーはできないということだった。
それからの生活はただ、淡々としたものだった。菜摘と一緒に登下校し、一緒に昼メシを食べ、授業中はぼうっと空を眺めていた。菜摘はおれを必死に励ましたり、謝ったりしたが、そういう問題ではなかった。それでも菜摘はずっとおれの傍にいてくれた。
高校生活はあっという間だった。高三の冬、おれはとりあえず進学することにした。しかし勉強なんてほとんどしていなかった。幸いセンター試験の現代文と現社の結果だけで受けられる大学があったので、そこに願書を送っていた。さすがに菜摘も同じところを受けるとは言わなかった。もともと地頭が良く、勉強もしていたのでもっといいところを受けるように先生からも勧められていた。
センター試験が目前になっていたある日、授業が終わったので校門で菜摘を待っていた。
どれくらい待っていただろう、しばらく待っても来ず、そのうちにおれは菜摘が補講を受けていたことに気がついた。そろそろ終わったころかと、教室に戻ると、中から声がした。おれは壁に隠れて様子を見ることにした。
「もうさ、あんな男のことなんて忘れて、俺と付き合おうよ」
「嫌だって言ってるでしょ、しつこい」
菜摘の声だった。
「……んだよ、あんなしょうもない落ちこぼれのどこがいいんだか。たかがサッカーができなくなっただけでこの世の終わりみたいなツラしてさ、情けねえよな」
おれのことだ。それに気がつくと我慢できず、教室のドアに手をかけた。
「あんたに佳祐のいいところなんて一生わからないよ!」
菜摘の怒声におれは、はっとドアから手を離した。
「昔から佳祐はわたしを守ってくれた。どんなときでも駆けつけてくれた。サッカーができなくなったのだって、わたしのせいで……それなのに……なんでそんな酷いことが言えるの! 最低よ! いますぐ目の前から消えて!」
「……ったく泣くんじゃねえよ。だけどな、お前の王子様はさっき帰ったんだよ。今回ばかりは助けには来ないよ。なあ、悪いようにはしねえからさ――」
「菜摘を泣かせるんじゃねえ!」
おれは教室へ入り、男の胸ぐらを掴んだ。
「殴るのか? やってみろよ。ただ、少年法に守られる歳じゃねえぞ。傷害罪だ! ブタ箱行きだ! どうだ、やれるもんならやってみな!」
おれは胸ぐらを掴んだままふっと笑った。
「落ちこぼれのおれには難しくてわからないな。――こういう話を知ってるか? 借金取りが一番怖い人間ってどんな人間だと思う?」
「……は? なんの話だよ」
男の膝が震えているのに気づき、おれは笑いそうになったが、話を続けた。
「一文無しの人間だよ。金が無けりゃ取り立てもできない。無い袖は振れない、とはよく言ったものだよ。――おれも、同じだ。ハナから失うものなんてねえんだよ……。だから、菜摘を泣かせる奴は許さない……。どんな手を使ってでも叩き潰す!」
男の力が抜けるのを感じるとおれは手を離した。男は一目散に教室から飛び出していった……。
「佳祐……」
菜摘は呆然としていた。
「おい、どうした?」
……ろうね。菜摘は薄氷のような微笑を浮かべて呟いた。
「なんで男ってこんなにばかなんだろうね」
このときの菜摘の表情は、いまでも鮮明に覚えている。残酷なまでに美しい彼女の姿。月下美人のように儚く、脆い。光のない輝きに吸い込まれそうになり、おれはなにも言えなかった。
「帰ろう」
菜摘のその言葉に、おれは目覚めるように顔を上げ、一緒に学校をあとにした。
7
あの日を境に菜摘は学校を休みがちになった。おれが迎えに行ってもおばさんが出てきて、放心状態なのだと言う。かと思えば急に怒り出したりするらしく、おばさんも疲れ切っていた。
春になり、おれは大学へ行くことになった。菜摘は精神科に診てもらい、完治しない病気だと診断された。大学は休みが多いので、おれは菜摘の負担にならないように気をつけながら様子を見に行った。菜摘の部屋は薬で散らかっていた。副作用のせいか、菜摘は朦朧としていた。目は輝きを失い、どこを見ているのかわからなかった。感情失禁もしばしばあった。だけど、おれが帰るときはいつだって笑ってまたね、と言うのだった。
キャンパスライフは高校生のときよりも淡白だった。適当に講義を受けて、サークルにも入らず、規定の単位だけ取って卒業した。その後の就職先は、講義で一応簿記一級を取っておいたのでそこそこの規模の会社の経理をすることになった。
社会人になったころには菜摘もようやく落ち着いてきて、薬の量も減り、月に二回の受診に行くだけでよかった。だけど、社会復帰にはまだ道のりは遠かった。
二十五歳になったころ、おれは仕事も軌道に乗って、一人暮らしを始めた。とはいえ実家のある市内のアパートで、だが。菜摘も寛解して資格を取り、介護施設の事務の仕事を始めた。菜摘の体調の良いときはおれのアパートに来て、夕飯を作ってくれることもあった。しかし、数ヶ月で菜摘は仕事のストレスで症状が再発し、まだ有給休暇もなく、クローズで入ったから退職するしかなかった。それでもまた無理やり仕事を見つけて働き続けた。
菜摘は見えない血と涙を流し、必死に歯を食いしばって職場に食らいついていた。ときには休職もしながら、それでもなお、働き続けた。
三年が経ち、再び体調が戻ってくると、以前のように菜摘はちょくちょくうちに遊びに来た。菜摘が作ってくれた夕飯を一緒に食べて、二人でテレビを見ていたある日、彼女は言った。
「なんで男ってこんなにばかなんだろうね」
「……男のおれに訊かれてもなあ。またなんかあった?」
菜摘はなにも言わなかった。
「……結婚しよう」
自分の口から出た言葉とは思えなかった。しかしそれはおれの本心だった。
菜摘は明らかに動揺していた。そして、絞り出すように言った。
「もう少しわたしがちゃんとするまで考えさせて」
8
それからさらに三年が経った。おれたちの関係はずっと変わらなかった。
忘れもしない初夏のあの日。日曜日だ。おれはインターホンで目を覚ました。外は紛れもなく朝だった。ドアを開けると服は汚れ、髪も乱れている菜摘が立っていた。
「ごめんね、寝てた?」
「……ちょっと待って。片付けるから」
おれはゆうべの晩酌の後片付けをして菜摘を中に入れた。麦茶を出して座った。
「ずいぶん汚れてるね。風呂入る?」
菜摘はなにも言わない。
「いままでなにしてたんだ?」
これも答えない。
「もう疲れた」
菜摘はぽつりと呟いた。それはおれに向けられた言葉ではないように思えた。
「なんかね、もう、なにもかもが嫌になっちゃった」
言葉と裏腹に、菜摘はあっけらかんとしていた。
「死にたい、とは違うんだよね、なんていうか……消えたい? ううん、もう、生きていたくない」
力なく笑う彼女を見て、おれはたまらなくなった。気がつくと菜摘を抱きしめていた。
「菜摘……。もう十分だよ。よくがんばった。昔からそうだよ、おれが一番よく知ってる。だから……もういいんじゃないかな」
「どういうこと?」
「がんばらないでいいんだよ。おれと結婚しよう。それで療養しよう」
菜摘はおれの背中に腕を強くまわした。
「そんなのダメだよ」
「ダメなんかじゃない。菜摘を守るのはおれだ。いままでも、これからも」
彼女はおれの胸に顔をうずめた。
「わたしはいい奥さんになんてなれない」
「そんなの、なる必要はない。菜摘さえいてくれれば、おれはそれでいいんだよ」
「でも……ダメだよ……」
「なんで? おれじゃダメか?」
「そうじゃなくて……わたしはもう生きるのが嫌なの。人生はわたしにとって厳しすぎる……」
「療養しよう」
「ごめん、もう限界なの。許して……」
おれは全身の力が抜けた。届かない。こんなに空しいことがあるか? おれは世界で一番大切な人も守れないのか? なぜおれの言葉が届かないんだ! 一番傍で、ずっと見てきたおれの……。
「佳祐」
菜摘はおれの胸から顔を上げて、そして言った。
「わたしを殺して」
9
「菜摘、起きてるか?」
おれは風呂場の前でうずくまっていた。中には菜摘がいる。
生きることを拒否した人間に、いくら希望を抱かせようとしてもそれは無駄だ。そもそも、なぜ、生きることを是としているのか、前提条件としているのか。おれにはもう、わからなくなっていた。だからおれは、ホームセンターで練炭を買ってきて、風呂場で炊いた。
「うん、起きてるよ」
そっか、とおれは言った。
「佳祐、ありがとうね。それと、ごめんね」
菜摘は眠剤が効き始めたのか、呂律が回っていなかった。
おれたちは昔話をした。菜摘はたどたどしく、それでも笑いながら話をした。
「――でさ、お前が勝手におれを彼氏なんて言うから……菜摘?」
風呂場の中は真っ白で見えない。
「菜摘!」
返事はなかった。
「おやすみ。それと、お疲れ様……」
おれはもう、なにも感じることも、考えることもできなかった。
インターホンが鳴った。ドアをノックする音が聞こえる。警察の者ですけれども、いらっしゃいますか?
ドアが開いた。警察が数人、入ってきた。
「警察の者ですが、山岸菜摘さんの行方を探していまして――」
おれはなにも言わずに、最後の力を振り絞って、風呂場を指差した。警察が慌ただしく風呂場を開ける。おれは無理やり立たされて手錠をかけられた。
10
数年後。
「仮釈放に伴い、所持品の返還をします」
ひとつひとつ、丁寧に確認していく。おれはそのさまをぼうっと眺めていた。荷物をまとめて、塀の外へ出た。刑務官に会釈をして歩き出す。桜が咲いていた。おれはどこへ行けばいいのだろう。
「佳祐!」
その声にはっとそちらを向いた。菜摘だった。
「ごめんね、わたしのせいで」
「なんで……おれが……殺したんじゃ……」
「わたしも気がついたら病院でびっくりしたよ。で、佳祐のことを訊いたら、殺人未遂で刑務所に居るって聞いて……。弁護士の先生に言われて、あれは自殺幇助だ、って言ったんだけど、あとから佳祐が自分で殺した、って言い張ったって――」
おれは菜摘を抱きしめていた。力を込めたつもりだったが、ずるずると膝から落ちていき、慈悲を乞うように彼女の脚にすがりついていた。彼女はゆっくりと腰をおろして目線をおれと合わせた。
「ねえ、佳祐……」
おれは菜摘の目を見た。どこまでも優しくて柔らかな瞳だった。
「わたしと結婚してください」
なにか言わなければ、と思うほど言葉が出てこず、おれは口を半開きにしたまま菜摘を呆然と見ていた。
「わたしね、カフェやってるんだ。スコーンがおいしいって評判なの。……体調が悪いときは休んじゃってるけど、ある意味では会社勤めよりは気が楽かな。病気も入院したらだいぶ良くなったし――それで、佳祐さえ良ければ、その、一緒に……」
最後はうつむきがちになって話す彼女を見ていると、凍りつき、錆びつき、朽ち果てたなにかが息を吹き返すような感覚が全身を包んだ。
「おれさ、刑務作業でスマホのレザーカバーを作ってたんだ」
菜摘はおれを優しく抱擁した。
「じゃあさ、それ作って店で売ろうよ。通販もいいかもね」
おれは菜摘の肩に頭を置いた。甘い髪の匂いが鼻をくすぐった。
「ほら、行こう」
菜摘は立ち上がり、手を差し伸べた。おれはゆっくりと手を伸ばした。 (了)
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