EMANON

 私に名前は無い。あったとしても必要ない。私はいつも誰かの代わり。別に私でなくてもいい。たとえるなら数学でいうx。

 たとえば会社。末端の私は、誰でもいい。でも、誰かが居なければいけない。会社という組織ならば、私以外の誰にでも当てはまる。

 友達。

 私にも友達はいる。

 でもたとえば遊びに誘われたときに私が断ったとしても、その友達は別の誰かを探す。私でなくてもいい。

 恋人。

 私に恋人はいない。

 でも誘われて遊ぶ異性はいる。同性では埋められないものを私が埋める。それでも私でなくてもいい。異性であれば誰でも。

 私はいつも誰かの代わり。誰かの代わりに一緒に居て、誰かの代わりにセックスをする。相手はいつも私ではなく、「私以外の誰か」を見ている。

 私に名前は無い。なぜならそのときの相手によって変わるから。相手が求めるものを演じて、ただ傍に居て、そう接している。きっとそれが相手が求めていることだから。私はx。誰かの代わり。私は「私」でいたらダメなんだ。


 私は疑問に思う。

 なぜ人は孤独を怖れるのか。

 私という人間を用いてまで孤独を埋めようとするのか。

「あなたなら来てくれると思って」

と、とある人が言った。そう、来てくれる人なら誰でもいい。ただ単に寂しさを埋めてくれればそれでいい。それは別に私でなくてもいい。ただ、私が来た、それだけ。

 私の代わりはいくらでもいる。量産された「私」。私が死んで悲しむ人はいるのだろうか。せいぜい、多少不便になったくらいのものだろう。

 別に死にたいわけじゃないけれど、私が死んでも宇宙は膨張し続けるし、戦争は絶えないし、友達は別の誰かを見つけて遊ぶだろう。

 それがいいのか悪いのかはわからない。ただ事実としてそうなんだ。これが現実なんだ。

 「特別な存在」を見つけるまでの宿り木。それがきっと私なのだろう。あなたは、君は、私を見ていない。もっとどこか遠くをいつも見ている。

 相手は私で孤独を埋めるけれど、私の孤独は誰が埋めてくれる?

 ……ふと、そんなことを考えた。でも私には寂しさがわからない。だからそんな存在は必要ない。でも他人は違う。常に誰かを求めている。

 そんなときに私、代数xが必要になる。私は話を聞く。人間というものは、とかく喋りたい生き物だ。「会話のキャッチボール」なんて言うけれど、あれは嘘だ。私はテニスの壁打ちの壁だ。だたボールを返すだけ。「私の球」は投げない。だから名前なんて必要ない。むしろ邪魔だ。

 人は人を裏切り、人に裏切られ、それを繰り返している。その度に傷ついて、二度と人なんて信用しないと心に誓う。そんな人が私に「あなたのことは信用している」と言う。だから裏切られるのだ、と私は思う。そもそも、信頼するということは、その人に裏切られてもいいという覚悟をすることだ。

 私は慰めの言葉を持たない。それは相手には届かないから。それよりも黙って傍に居るほうがよっぽどいいと思う。誰も私の言葉を必要としない。「私以外の誰か」の言葉が欲しいんだ。だから私は黙る。

 ――これ以上は語るまい。

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