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赤い炎の女

 金曜日。

 仕事が終わり、同僚から飲みの誘いがあったが、断った。別に嫌ではなかったが、それよりも早く帰って読書がしたかった。どうせなら本を読みながら酒を飲みたい。今日もいつも通りホワイトホースの水割りを飲むつもりだ。アテなんてなんでもいい。メシの代わりに野菜炒めでも作るつもりだった。



 駅のホームで電車を待っていると、電話が鳴った。高校時代の友人からだった。卒業してからは数年に一度、会うか会わないか、そんな関係だった。彼はいま、趣味の筋トレがこうじてジムを経営している。本格的なトレーニングからフィットネスまでメニューがあり、彼のジムは都内に何ヵ所かあって、どこも繁盛しているようだ。おまけに自分も筋トレが好きだから、自分がやっているトレーニングやマシンの使い方などをYouTubeにアップしていて、それなりの再生数を稼いでいるらしい。つまりは成功者だ。30歳半ばにもなってくると、こうも人生に開きが出てくる。彼に比べれば俺は大卒だからという理由だけで入った中途半端な不動産の営業で、成績は中の下といったところだ。要するにパッとしない。だからといっておれは悲観的になっているわけではない。仕事は金のためにやっているだけで、本を買うため、音楽を聴くため……つまりは趣味のために働いている。独身ではあるが、寂しいと思ったことはないし、結婚する理由もない。

 電話を取ると、溌剌とした声が耳に響いた。久しぶりに飲まないか、お前と話したいんだ。そんな内容だった。おれは承諾して、落ち合う場所を決めた。彼が指定したのは六本木にあるホテルだった。名前は聞いたことがあるが、行ったことも見たこともない、そんなところだった。なんでわざわざそんな豪奢なところで……といぶかしんだが、おれはわかった、と言って電話を切った。


 ホテルに着くと、彼はすでにロビーで待っていた。見ただけでわかる、金のかかったスーツを着ていた。彼の先導で最上階にあるバーへ向かった。

「しばらくぶりだな。んん、相変わらず、ってところか」

 そう言って彼は笑った。屈託のない笑顔だった。

「まあね。YouTube見てるよ。かなりキツいね、あれは」

「じゃあ、今度は初心者向けの動画でも出すか」

と言って彼は笑った。

 スツールに座ると彼はダイキリを、おれはジントニックを頼んだ。

「急にどうしたんだ?」

「いや、悪いな、呼び出しちまって。なんていうかさ、友達と飲みたくなってさ」

「おれじゃなくても、いくらでもいるだろ」

「そうじゃねえんだよ、おれはお前と飲みたかったんだよ」

 カクテルが来て、お互いにグラスを軽く持ち上げて、飲んだ。

「ーーいやらしい話になるけどさ、おれは社会的に成功したよ。それはみんなもわかってる。そうするとどうだ、みーんな金の話だ。対抗してくる奴もいればせびってくる奴もいる。もう、うんざりなんだよ。だけど、お前は違う。金の話をしてこない。さっきのYouTubeだってそうだよ。他の奴なら収益がどうの、なんて話ばっかりだ……いや、悪いな、こんな愚痴に付き合わせちゃって」

 別に構わない、とおれは言った。話したいことを話せばいいと。

 彼とどれくらい話したろうか、結構いい時間だった。彼は腕時計を見て言った。

「遅くまで悪いな。ありがとう。ここはおれが持つよ。あと……いまから帰るのも億劫だろ? 部屋取ってあるから、今日はそこで休んでってくれ。特別サービス付きだ」

「至れり尽くせりだな」

おれが笑うと、彼は、おれはお前が好きなんだよ、と言って去っていった。


 彼の用意した部屋で、おれはシャワーを浴びてバスローブに着替えて、読みかけの本を読んでいた。水でも飲もうと、冷蔵庫へ向かおうとしたときにインターホンが鳴った。女の声だった。断ろうとすると、女は彼の名前を口にした。受話器を戻して、ドアを開けた。立っていた女を眼前にすると、おれはガソリンに火をつけられたような感覚が全身を駆け巡った。それを必死に抑えつけて女を部屋にいれた。

「ベルグソンなんて読んでるの? ずいぶん趣味が悪いのね」

 枕元の本を手に取ると、女は言った。おれはむっとして、君はなにを読むの? と訊いた。

「ゾラ」

「ジェルミナールの?」

「どうせそれしか知らないんでしょう?」

 おれはさらにむっとした。しかし、彼女の妖艶で淫靡な、それでいてどことなくやるせない雰囲気に飲まれ、意に反してぺニスは勃起していた。さっき感じた炎はさらに心のなかで真っ赤に燃え広がり、もう抑えることができなかった。

 魔性だ、と思ったのが最後の記憶だった。


 目を覚ますと朝で、窓からは陽が差し込んできて、それが紛れもなく朝だとおれに知らせた。

 女の姿はなかった。しかし、記憶を辿ると行為の様子がたどたどしく蘇ってきた。点と点が繋がり線になると、線は赤い炎になり、ぺニスを勃起させた。おれはトイレで記憶を頼りにオナニーをした。


 あれから一週間が経ったが、いまだにあの女の記憶は薄れない。あの晩の記憶だけで毎日オナニーをしている。ついにこらえきれなくなり、昼休みに先日の友人に連絡を取った。

「最高だったろ」

 それが彼の第一声だった。おれはもう一度呼んでくれ、と頼んだ。今度は自分で払うから。

「それが、あれっきりおれも連絡がつかないんだ。辞めちまったのかなあ」

 おれは茫然とコンビニの駐車場から見える県道を見るでもなく見ていた。彼の声が聞こえるが応えられない。おれは赤い炎の女との一晩をまた思い返していた。

 車から降りて、おれはトイレへ向かった。

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