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健常者じゃなかった

 高校3年生の夏、ぼくは統合失調症になった。正確にいえば病名を知ったのはもっとあとのことだけど、この高3の夏に世界の見え方ががらりと変わった。


 12月から精神科に通い始めて、大量の精神薬が処方された。飲むと楽にはなるけど、副作用の倦怠感や眠気がひどく、逆にそれで死ぬかと思った。このころ、一回、本気で自殺しようかこのまま生きようかを考えたことがある。そのときの精神状態は、細い糸一本だけで正気を保っていて、これが切れたら気が狂うな、と、ギリギリのところまできていた。理由は長くなるからまたの機会に書くとして、とにかくぼくは生きることにした。


 正直、あのときに死んでおけばよかったと思うことも少なくない。いまでもそう。でも、なんとなくこの先、生きていてよかったと思えそうな気がしてきたので、これを書いている。


 ぼくはいま、仕事を辞めて、就労移行支援事業所に通っている。仕事を辞めたタイミングで障害者手帳と障害年金の手続きをした。これがどういうことかというと、ぼくは発症してから10年以上、健常者のつもりだったということ。だから、バイトもしてたし、進学もしたし、新卒で就職もした。一人暮らしもしている。


 就労移行支援事業所でいま取り組んでいるのは、「自己分析」。主に自分に合う仕事を見つけるために行うものだけど、ぼくの場合、根が深いことに気がついて、幼少期のころからさかのぼってやっている。ぼくの両親はいわゆる毒親で、病気の理解もなかった。そもそも、ぼくのことを理解しているとは到底思えない。例を挙げればキリがないので割愛するけど、要するに発症した原因は両親にあったということに最近気がついた。いまは別に恨んだりとか復讐したいとか、思わなくなったけど、小さいころからつい最近までは思ってた。


 事業所に通い始めてまず思ったのが、社会って障害者に対してこんなに優しいんだ、ということ。それは事業所のスタッフの方はもちろん、日本の福祉制度に対してもそう思った。それまでは体調が悪くても気のせいだと思い込んだり、自分はそんなに弱い人間じゃないと言い聞かせたりして、気合いでやってきたけど、心根では休みたい、休養したい、一回立ち止まりたいと思っていた。


 夜勤やって明けの日にまた夜勤をやったり、明けでそのまま仕事して都合で72時間働いていたり、役職についてからは月200時間以上残業してたし、帰れないことも週に何度もあった。職場に3泊4日したこともある。とある事情で(これはさすがに書けない)1年無休で働いていたこともある。


 そして、バーンアウト。辞めてから半年くらいはなにもできなかった。ひたすらネットフリックスでアニメを観て、酒を飲んで、ごはんはウーバーイーツ。このときは前職のことや幼少期のころのことがフラッシュバックして、何度も自殺未遂をした。自傷行為もした。それがだんだん落ち着いてきて、去年の9月、そろそろ仕事探さないとなって気になってハローワークに行った。前職でそれなりにキャリアを積んできたし、資格も持ってるし、同じ業種だったらすぐに決まるだろうと思っていたけど、求人票を見ていくうちにまた体調が悪化して、就職活動は中止。そこから就労移行支援事業所に通うことになった。


 通い始めたはいいものの、なにをすればいいのかがわからず、とりあえず決まった時間に行って、読書をして、決まった時間に帰る、って感じだった。


 それに見かねたのか、担当のスタッフの方が、そこの一番偉い人で、面談したり、通院したらそのときのことをwordにまとめたりするように言われて、ぼくは言われるがままそうしていた。いろいろなことを文章にしていくうちに気がついたこともあった。それを面談で話したりしていった。


 いまでは自分の課題がわかるようになってきて、前職のような仕事は無理だとわかったし、就職もまだまだ時間がかかることも理解できるようになった。いろいろ課題はあるけれど、一番は「疲れに気づかない」ということ。それまでどんなにしんどくても家族を含めて誰も助けてくれなかったから、なにもかもを全部ひとりで背負っていた。だから弱音なんて吐いているヒマなんてなかった。そんな環境にいたから、誰かに相談することもできなかったし、なにより「疲れた」っていう感覚がマヒしていた。「疲れた」とか「寂しい」とか「悲しい」とか、感情が死んでいた。


 そのことに気づいてから取り組んだ訓練もあるし、これからやろうと思っていることもある。プログラムにも参加するようになったし、いま、ようやくスタート地点に立てたような気がする。担当の方に自己分析をやるように言われなかったら、自分が障害者なんだという自覚は持てなかったと思う。それは決してほかの人たちを見下したりとか、そういう意味ではなく、「体調さえ戻れば自分はすぐに復帰できる」という勘違いをし続けていただろう、という意味で。


 友人にもカウンセラーにも、「よく生きてましたね」って言われたけど、今考えれば、自分でもそう思う。愛情なんて受けられず、人格を否定され続けて育ってきて、仕事でボロボロになってもなにも手を差し伸べる人はなく。できて当たり前、できなきゃ怒られる。だから恋愛もうまくいかないし、事業所で褒められても「これくらいできて当然だけどな」と素直に受け取れない。


 どこかで「自分を認めてあげる、愛してあげる一番手っ取り早い方法は、『○○(自分の名前)、よくがんばったね』って言うこと」というのを知って、やってみたら、これが、言えなかった。言おうとしても、「あう、あう」ってなっちゃって。時間をかけてようやく言えたと思ったら、その晩に自分を全否定される夢を見て飛び起きた。頭ではわかっていても心の深いところで拒絶反応があったんだろう。


 こうして振り返ると、いかに歪んだというか、異常な人生だったんだなと改めて思う。でも、いまはやり直そうとしている。まだ先だけど、社会復帰できたら、どんな生活が待っているんだろう。


 ……ほんとはいっそのこと、洗いざらい書きたかったんだけど、長くなりすぎるし、なにより内容が内容なだけに、割愛した。誰にでも秘密の2つや3つ、あるでしょ?笑


 最後まで読んでいただきありがとうございました。誰かのためってよりは自分のために書いたから、読んだところでなにも得られるものは無いと思うけど……。締めくくりはぼくの好きな曲の歌詞で。

 

 急いで 人ごみに染まって

 諦めないほうが奇跡にもっと近づくように

 喧噪も 待ちぼうけの日々も

 後ろ側でそっと 見守っている 明日に変わる意味を

Syrup16g『翌日』

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