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My favorite100 #08 One more time/ エヴァ(シンエヴァネタバレ感想有)

『シン・エヴァンゲリオン 劇場版:||』観てきました。
鑑賞前に、ふだん書いているすきなものについての連載に「エヴァ」をさくっととりあげておわるつもりだったのですが、やはり観たら書かずにはいられなくて、今度はネタバレありでもう一度書いています。ストーリーと心の変化、動きを追いかけることに集中していて、細かいところもまったくとらえきれていないし記憶が曖昧なところもあるし、あくまでまだ一回しか観ていない個人の感想で、もう殴り書きに近くなりますが忘れないうちに投下します。

上記の記事中に以下のようなことを書いたのですが、じぶんの感情の終着点としてはほぼほぼこのとおりになったことにちょっとおどろいている。こうは書きつつも(言ってうまくまとまるのかな…こんなこと書いて部屋のすみに戻っていたらどうしよう…)なんてことも脳裏をよぎっていたので。

わたしはもうエヴァをエンタメとして消費できるようになっていることに思い至った。むかしは、見返すとしたらメンタルの状態を選ぶ作品だと認識していたけれど、わたしはもう旧劇のエヴァを観ても部屋のすみで膝を抱えたりしない。いつからか、あのとき没入していた物語の外へ出ていたのだと思った。それは祝杯をあげるべき事態だった。まさに手を叩いて「おめでとう」ってやつだった。年を取ったからっていうのはあるんだろうし、現在の庵野監督から旧劇のような表現はおそらくもう出てこない(シンは知らないけど、ない、もしくはあったとしても似て非なるものになるかと思っている)って確信しているところもあるけれど、強くなったねわたしって思いたいよね。(中略)いまは手放しでエヴァを愛していると言える。正直シンジくんやアスカのことハグしたいよ。そして「シン・エヴァンゲリオン」を観て、さようならって言いたい。

結論から言って、シンエヴァめちゃくちゃよかったです。この期におよんで頻出するあたらしいワードもあって混乱をきたしたけれど、補完計画がはじまってそれに対してどう解答するのかと、描きたかったことは旧劇とさほど大差はなかったと思う。虚構と現実を地続きに描いたり、例の「現実に還れ」って言われてるやつですかね。

旧劇を観たときは、精神をタコ殴りにされたまま「甘き死よ来たれ」が流れるあたりから、どうしようもない後悔に苛まれる過去と、その過去がもたらしているさらにどうしようもなくなっている現在にたいする絶望と悲しみから派生した涙をとめられないまま(あと冬月さんの「碇、お前もユイくんに会えたのか」で毎度なぜか大決壊する)、もうだめだ…死にたい…ってデストルドーで満タンになっていた。どんな密度でそう思っていたかを当時の日記で確認したかったけれど、もう処分していて解像度が低いのがちょっと残念。まあ読み返したくなかったから捨てたんだけど。とはいえ、わたし自身は「他人と溶け合ってひとつになるなんて死んでも嫌だね」な人間なので、たとえ痛みを伴っても拒絶を怖がっても、結果的に他者と共存することを選んだEOEの結末は腑に落ちているし、なんなら希望を孕んで劇的な再生を遂げたとも感じたエンドだった。だってたとえ補完に夢を見出したとしても、それはアニメの中の話であって、映像が止まればわたしはただ現実に存在していて、生きていかなきゃいけないから。でも、傷つきながら生きていてもいいのだとか、そうやって怖がってもいいんだとか、見方が変われば世界が変わる、それならそう意識して生きようという教えをもたらし、わずかにリビドーを呼び起こしてくれたのは確実で、今になってよくよく考えてみれば、あの時点でわたしのなかではエヴァはすでに完結していたのだなと思うし、自分がなぜEOEをすきなのか、シンエヴァを観たことで逆にクリアになった。あれはほんとうに純文学的傑作だった。

にもかかわらず、シンエヴァのことめちゃくちゃよかったと感じるのは、アニメも旧劇も新劇も含めたすべてのエヴァも虚構も現実も内包したうえで、広い可能性を描き結末へ導いたと感じたからかもしれないし、すでに物語の外へ出ていたわたしが肯定されたような気になったからかもしれない。
それに「現実に還れ」ってばっさり冷たく言い切るよりも「外の世界に出て他人と生きるのもいいもんだよ、少なくともわたしはそう思った」くらいのかんじかなって。現実には嫌な面があるのは確実だけれど、そうではない面をより強調して希望をもって描いたというふうに受け取りました。だってなんか愛だった。
ていうかそもそも現実ってどれ?なんですよ。自分が見ている世界なんてすすごく狭いし、他人と認識が違うからそもそも現実の輪郭なんてはっきりとらえられない。結局、自己完結した感情や思考で構築した世界なんてほぼ虚構みたいなもんだし、「現実に還る」って二次元云々じゃなく、他者の存在を認めること、許すこと、受けとること、愛することで自己完結のループから飛び出すことでもあり、現実を認識させるものは他者でしかないと、観ながらあらためて感じるところもありました。対話をする、わかろうとする、他人が自分のかたちを作るってメッセージはあんまり変わっていないんだけど、今回は眼差しがポジティブでやさしい。全編とおして、みんなシンジくんにやさしいですし。

LCLで溶け合うことを望んだアニメ版(※後日追記 わたしはあの最終回について、割れた背景はATフィールドが完全に取り払われたと解釈しており、ひとつになった気持ちのよい世界で僕はここにいてもいいんだ、という結論に至ったとずっと思っていました。けれど、シンエヴァを数回観るにあたり、もう一度きちんとアニメ版を見直したところ、違うのではないか…?と思い始めもう一度考えている最中です。呪縛から逃れられていない…)はともかく、旧劇の帰結は痛みを伴う強烈なものだったので、新劇のように「エヴァのない世界」を望み新しい世界(世紀?)を構築するラストは、見ようによっては逃げているのと変わらないかもしれない。だけど、「ニアサーの戦犯」「カヲルとの別れ」から絶望の沼に沈んで声すら出せなかったシンジくんが、かつてのクラスメートのやさしさに触れ、アヤナミレイ(彼女が村でのプリミティブな生活を通して生きることの根本を獲得していくところ、とてもよかったです。そしてかわいかった!)が差し伸べてくれた手と言葉、彼女の消滅によって考え、立ち直り、人と会い、話し、決意して、ミサトさんに「ミサトさんが背負っているもの半分背負うよ」「リョウジくんのこと僕は好きだよ」と話せるようになって、ついにゲンドウと対話をして(というかお父さんの心情をきちんと聞けたし、わたしとしてもゲンドウの独白でより視界が開けたようなかんじはある。それってエゴじゃん!の一言だけど。それでもチビシンジのこと抱きしめることができたところはえもいわれぬ感情がせまり、カオス化しました)、アスカに「ありがとう」とむかしは好きだったって伝えることができて、カヲルくん(というかあれはゲンドウの一部だたぶん)の全肯定というぬるま湯に身をゆだねることをやめ、「エヴァに乗らないしあわせ」のため初号機を譲らなかったレイちゃんを降ろして、まどマギのまどかですかってなるくらいの覚悟までしたうえで、あの世界を望んだのであればそれでいいんです。泣けたわ。結局お母さんとマリが生かしてくれるんだけどね。愛されてるね、シンジくん。それも、マリがユイ(あるいはゲンドウ)とつながりがあったからで、この「つながっていく」「つないでいく」というテーマも、シンエヴァで色濃くなっていると感じます。村の描写しかりミサトさんの出産しかりヴンダーの『種の保存』しかり。

あの世界もひとつの可能性でしかなく、シンジくんの成長を描いてきた新劇場版だからこそ、あの結末もわたしはすっと受け入れられました。神木くんが声あてたからかなあ。にじみ出る陽キャ感…エヴァがない世界だからって傷つくことがいっさいないってことはありえないしきっとあるけど、前に進めたなら、元気にしてるならそれでいいけど…って思った。

あとは、アスカが、アスカはアスカでいいんだよって、エヴァに乗らなくても言ってくれるひとに出会えたからさ…もうそれがほんとにほんとに巨大感情すぎて…恋人だとか恋人じゃないとかそんなことはどうでもいい。特別な存在であることは、ケンスケがアスカのことを撮っていたシーンから伝わりますが、関係性に必ずしも名前をつけなくていいんだよね、わたしとしては。愛を感じたじゃん…アスカだけではなく、ミサトさんをはじめとした主要なひとたちのことも、旧劇の世界線を思えば愛を持って救済した感じもしたし。ミサトさん、切なかったけど最期はしびれましたね。帽子とって髪ほどいておなじみのうさぎちゃん前髪…こんなん泣くでしょ…
なんといっても、未完のまま終わらず、完膚なきまでに完結させたこと自体がもう賞賛に値すると思うんですよね。この解放感を持って座席を立ち、劇場を出られることはほんとうに大きかったと思います。すごいものを観たっていうのは、おもしろいか否かを度外視して、ただそこに引っ張られてしまうところもあるのはわかっているけれど、それでもすごいものはすごいし「すごい」って言っちゃう。エンドロールが流れているあいだ「おめでとう、ありがとう、さようなら」って感情の洪水をとめられなかった。

なるべく「エヴァ」という作品にフォーカスしてここまで結論を書いてきたけれど、どうしても庵野さんがちらついてしまうところも多くて、というか庵野さんのエヴァを作ってきた半生でしょっていうメタ的な視点で見れば、マリって安野モヨコ先生だよねってはちゃめちゃにわかりやすい。
以前、モヨコ先生の作品を

読んでくれた人が内にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いてくるマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。(監督不行届/庵野秀明インタビュー)

と、エヴァでは最後までできなかったものだと評していたことや、守る人ができた監督には、もう旧劇のようなものは作れないだろうとずっと頭にはあったんですよね。「シン・ゴジラ」がそれを深める要因にもなったこともあり、「エヴァ」もそれに近いものを目指すつもりではないか、と完結を待つあいだ想像したりもしたし。かたちはすこし違うのかもしれないけれど、シンエヴァは今でなければできなかったものだろうし、今だからこそできたものだろうし、今完成したことに意味があるのだろうと思います。なにより庵野さんが25年かかって、途中で結婚したり鬱になったりいろいろな仕事をたくさんしながら生きてたどり着いた答えだとしたら、その重みも含めてありがとうと言うほかないです。
誰よりいちばんエヴァの呪縛にかかっていたのはきっと監督だから、それが解けたのなら「おめでとう」って手を叩くしかない。
それでも、これほど深く根を張り、人生に干渉しつづける作品とそれを生み出した庵野さんと時代を同座できた事実自体、まれにみる幸福だったと今は感じます。
"年をとっても 忘れられない人"これにつきる。
わたしはやっぱりエヴァンゲリオンを愛しています。これまでも、これからも。


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