自分の内面振り返りと、考察と

ベースが割と真面目で、できない事をできるように頑張る、とか、他人の意見が不純だったり、真っ当じゃないと受け付けられない、とか、もともとは分かりやすく「正しい」ことに執着しやすい性質がありました。ここで言う正しさは、善意における行動や発言を指します。

生まれ持ったものなのかは分からなくて、まず大きく影響しているのは母からの「優しくあれ」という教育と、少なくとも幼稚園まではのびのび育てられいて、かつちゃんと受け入れられる実感があって、正しく優しい人達に囲まれてそれを信じていられる環境があった。

要は守られていたんですね。

小学校に上がってからは守る・守られるの環境だけじゃなくなってきて、基本的に人には合わせないでフラフラしてる事が私の普通だったから、周りの人が協調し始めて、その連帯感の中にいた実感はその時からずっと、今までほとんど無くて。思い出は沢山あったけど、仲間っていう感覚はごくごく最近分かるようになってきた感じ。学生時代、クラスや部活にいた頃は、正直9割近くその実感はありませんでした。

でも人と関わるのは嫌いじゃ無かったので、お互い関わりたい時に関わって、相手が関わりたくなさそうだな、と思ったら、まあ辛いけど相手から、もしくは自分から自然と離れていけば、それでいいと思ってたんです。

なんとなく"友達"の境界が自分の中にはっきりしていなかった頃に、自分にとってちょっと嫌なつながりの絶ち方をしたことが一回だけあって。

悪口を言われる事も、どれだけ周りに嘘をつかれて追い込まれて一人になっても、どんなに嫌な事があっても、同じように連帯感を使って(加担して)やり返そうと思わなかったのも、"正しさ"を信じていたからそうできていた。

今思えば、持ち物を傷つけられるとか(しょっちゅう忘れ物をしていたからかもしれないけど=そんなに物を大事にしているように見えなかったから、傷つける意味が無いと思われていたかも)は無かったし、たまに友達の家に誘われたりすることもあったけれど、"相手と同じこと・気持ちをやり返さない"ことが"臆病さ"と捉えられるのは不甲斐なかった。

それでも、人の能力の高さを見て、憧れて、自分の能力も高めたいという気持ちは強かったから、与えられた課題と、目の前の幸せがあるだけで十分だった。

つながりのない状態で責められている時はなんでなんだろう?という気持ちでいっぱいで他の事なんて考えられなかったけど、ひとりでいた時は"ああこうやって人は自殺するんだろうな、絶対覚えててやろう"と思っていました。

つながりを絶つ原因が"正しさの押し付け"(押し付けられている感覚は当人にしか分からないけれど、絶対条件だったのは感覚的に感情・我を素のまま人にぶつける事、晒される環境に置く事)なら、と

受け入れられなくても、自分の気持ちや考えそのものを人に向けること、見せることは要らないと思いました。

その後、"押し付けてしまう本性"を抑える事と、"努力が能力に結びついた"事と、"嫌だと抵抗する事さえも自分に許していなかった"事が重なった上で、正しさが強さの上でしか成り立たないのなら、大多数よりも少数で、かつ弱さからも正しさを見い出せる可能性はないのだろうかと探り始めました。

大多数派は公の場で能力がある人間、もしくは認められる事であり、能力的には必要とされないけれど、その場に繰り返し行く少数派においての強さにも疑問は持っていたので。

進学するにつれて、大多数派が正しさへ大きく変貌していくのを見て、大人に近づいてるからなのか、ネット社会で弱音・本音が吐露される場が増えたからなのか、どちらかは分からないにせよ、少数派でありたいと思っていた私は、というより、嫌なつながりの絶ち方をした事がきっかけで、1度だけ他人を拒否してしまった事があった自分への罪悪感もあり、なおさら、自分が弱さだと思っていた正しさは認められる事が増えたけれど、どうも強さの上には成り立っていないような気がして、(私が見てきた強さとは質が違う)おかしいなと思っていました。

わだかまりのようなものと、少数派に寄っていくことで、大多数の"正しさ"を目の当たりにし、自分は正しさを信じられなくなり、とうとう"正しさ"に執着しきれなかった分の悪意が芽生え始めました。嫌だと拒否・抵抗することさえもできる限り自分に許さずにいたけれど、それも容易くできる事、正しさは用意された道を真っ当に歩き、誰かや何かを信じ、それを頼りながら生きる分かりやすい"事実"であり、悪意には幅がある事、ぶつかった故に生まれた傷や痛みや犠牲である事を知りました。心の内の片方に思い切り蓋をしていたところが弾けたような感覚でした。人から優しさが返ってくる事が増え、自分が思いやりだと信じていた正しさは思いやりではなかった可能性が突きつけられて、全てに嫌気がさしました。

ある程度の距離をとることも冷たさではなく思いやりで(自己保身も兼ねているけれど)、何より苦しい立場であっても、人を守る事はどれだけ負荷のあるしんどい事か、正しさ一辺倒で通用する気持ち的には甘い事じゃない事、そして悪意は瞬間的には楽しいし、力も強大だけれど長くは続きにくい、いつか何かに終わらされる、または終わりが早まる可能性が迫ってくるものである事。今では気付けて良かったなと思いますが、気づいた時は全てに絶望感を持っていた時でした。

独り立ちして、優しさだと思っていなかった厳しさは現実性を持った優しさである事に納得がいった。"強気でいる"事に共感ができた。見る事ができなかった気持ちや心の動きが、すべて分かってしまったような感覚になった。否、瞬間瞬間で心の動きは変わるけれど。

でも、私の中心は気持ちを救えなかったら意味が無いという事が分かった。

ようやく人としてのスタートラインに立てたような気がした。

-余談-

"育て方"をすごく責めるような発想を持っていた事もあったからなのか、両親もしくは片親と溝があるのかな?と思うような子が周りにいた事もけっこうあったような気がします。

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