深夜に起きてダーッと書き連ねたもの

善意と悪意の話
私は"感情"というものにすごく興味があって、自分の感情に結構重きをおいて生きてきました。もちろん他人の感情表現にも興味がある事はありますが、感情をそのものとして知れるのは自分の感情しか確かなものが無いという前提のもと生きていますし、それに今のところ変わりなく、もし、他人の感情を知ることができているというのであればそれは自分の感情を元にした経験からの推測によるもの、もとい憶測や決めつけから来ているものだと思っています。

あくまで私の場合なのですが、生まれて自我が芽生え出した時は善意の強い人間でした。そのため、性善説が根幹にあるような幼少期を送ってきたのですが、それに起因して理想というものが物凄く高く、向き不向きに関わらず何事にも完璧を目指そうとする、真っ当に努力をしていれば結果が伴い、世間、万人に認めてもらえると思っていました。ですが、自分のそのような想像通りにはいかず、壁にぶつかることも思った以上にあり、しかも、どうもそうではないらしい、そうではないというのは、その考え方自体が完璧なものではないということを実感する出来事が自分に訪れました。

それが、自分の悪意をちゃんと知ることでした。というのも、気持ちが善意に偏っていた幼少期を送っていた事や、感情への探究心が勝った事等、理由は複数あるのですが、ある日を境に急に悪意に感情が一気に偏ったのをはっきり覚えています。これは、前述した世間、万人に認めてもらえる事への手立てが無くなった事が1番の要因かなと思っています。それからは悪意にまみれた生活を送ってきたのですが、"自分の"悪意に重きを置いていたのが良かったのか、思ったより人の悪意に染まるということは無かったのが、今こうして自分が生きていられている大きな理由なのかなと思います。ただ、善意が誰にでも分かりやすいけれど、敵意を集めやすく、はじめの段階のハードルが高いのに対して、悪意は善意よりも多種多様で共感を生みやすく、はじめの段階のハードルは低かったです。現時点では、このハードルの高さ低さが、いわゆる性善説のみ存在する考えの否定に繋がってくるのかなという発想に至りました。というのも、前述した通り、想像通りにいかない、壁にぶつかることが多かったという部分が善意のハードルの高さを現していて、逆に悪意は多種多様な分、人それぞれへの共感力が高く世間では生きやすく感じる事が多いといったことが大きな特徴なのですが、この共感力が高くなった事が答えで、悪意をもとから強く持っている人間がいる、いわゆる性悪説がこの世には確実に存在するということを薄々感じていたものが確証に変わりました。理由は、悪意に共感する人が世の中には多くいる事や、強い悪意を持った人間の求心力を実感を伴って知る事ができたからです。善意が強い人間から見ると恐ろしいことのように思えますが、反面、強い悪意を持った人間の視点から見ると個人の強い善意そのものが恐ろしいものに感じる、いわゆる独善的なものに感じる、という事実があります。これは、善意が強いと起こる現象として、「人の善意そのものが当たり前のものだと感じてしまう」ことが恐ろしさの一因なのかなと思っています。

一見、いじめが無くならないことや、SNSでの執拗な攻撃など、悪意がなくならない事の根本は性悪説にあるようですが、そうではなく、性善説における共感の難しさも一因としてあるのだと思います。また、悪意による求心力の高さについての補足として、「善意が強かろうが悪意が強かろうが人は悪意を無視できない」という事実もあります。これは、「善意によって悪意は無視できないが、悪意によって善意を無視することはできる」ということがかなり大きく、かつ善意同士には意図によって細やかな差があり、互いへの影響力は少なく、同じ意図を持ったもの同士のみが共感できるのですが、悪意同士というものは、大きく意図の外れたものであれば対立が起きますが、前述した通り善意によって無視することができないからこそ注目を浴び、それをもって共感を生みやすい面もあります。私の場合、自我が強かったから悪意も強く出たような気がしていて、だからこそ自分の感情を見つめてみることで、自分にとって有益な情報が得ることができました。現段階では、自我が芽生えた時に強く持ってる感情でない方の感情が芽生えると、その人の世界が大きく広がって大人になる、成長するのかなと考えています。


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