香りと呪い
夢ならばどれほどよかったでしょう
未だにあなたのことを夢にみる
忘れた物を取りに帰るように
古びた思い出の埃を払う
冒頭の引用は、米津玄師の「Lemon」のイントロから。
香り、匂い、呪いについて、これほどの筆致で歌ったアーティストを他に知らない。
本稿は、香りという物理現象をもとに、過去に向かう記憶と、それがどのように呪いへと至るのかについて述べた恋愛エッセイである。
五感と言語化不可能性
人間には五感がある。則ち、嗅覚、視覚、触覚、聴覚、味覚があることが知られている。これは人間に限ったことではなく、ヒト以外の動物にも五感がある。程度の違いはあれ、人間とさして変わらない。
では、人間と動物を区別するものは何かというと、構造化された高度な言語運用能力と、それに立脚する論理的思考力である。
ヒトは言葉によって生まれ、思考し、愛を語るのである。
にもかかわらず、香りに限らず、五感というものは現代科学を持ってしても言語化不可能なものである。貴女が嗅いだ匂い、見た景色、触った感触、聴いたニュアンス、食べた味……。言葉で表すことがどれだけ可能だろうか。
千の言葉を尽くしても伝えられないことがある。当たり前なことを我々は忘れがちなのだ。最もこれは、人間が言葉に頼りすぎた驕りをも示唆するものである。
香りという物理現象
五感、とりわけ嗅覚と香りに話を戻す。五感の中でも、嗅覚は特別であることが知られている。
何が特別か?嗅覚は記憶と密接に結びついているのである。科学的根拠としてプルースト効果を挙げる。
引用すると、
香りを嗅ぐ事により、その時の記憶や感情が蘇る事を『プルースト効果』と呼びます。(中略)香りで記憶がフラッシュバックする事は私たちの日常においてもよくある出来事だと思います。例えば、友人がいつも同じ香水をつけていて、街角でその香水の匂いがすると、その友人の事をふと思い出すなど。
少し専門的な話になりますが、香りは鼻→嗅上皮→嗅細胞(嗅毛)→嗅球→大脳辺縁系の順で脳へ到達します。大脳辺縁系は食欲などの本能的な行動や、喜怒哀楽などの感情を司る所です。嗅覚はこの大脳辺縁系と直接結びついており、これは五感の中で嗅覚だけが持つ特徴です。つまり、香りは本能的な行動や感情に直接作用する、と言い換える事が出来ます。
米津玄師が伝えたかったこと
冒頭に引用した歌詞を改めて精査する。言わずもがな米津玄師の「Lemon」である。
Lemonの匂いから始まる一連の詩は、徹頭徹尾、過去に向かう記憶にフォーカスしている。本来なら言語化困難である香りという現象を芸術に昇華している点が、米津玄師が一流のアーティストたる所以だと、筆者は強く感じている。
レモンという強い香りの果物に仮託して、二度と戻らない想い人を歌ったこの作品は、筆者もお気に入りの一曲である。
好きになった男に呪いをかける
香りが呼び覚ますものは言語化不可能であり、五感の中でも特別に作用するものであることはすでに述べたとおりである。
あえて科学的でない表現を使うならば、これはもはや呪いである。百の言葉を尽くしても伝わらない身体的で直情的な何か。ふとした瞬間に思い出す記憶の楔。
最後に、私が一番好きな恋愛短編小説から一節を引用して筆を置く。
私ね、素直じゃないから、と彼女は言ってシーツを目の下まで引き上げた。喧嘩しても、自分から謝れないこともあると思うの。いっぱいあると思うの。だから、そういうときには、この香水をつけてく。この匂いを嗅いだら、今日のことを思い出して。思い出したら、私は胸の中で一生懸命謝っているんだと思って。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいって。
(恋愛アンソロジー "I love you" より、Sidewalk Talk/本多孝好)
https://www.amazon.co.jp/LOVE-YOU-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BC%8A%E5%9D%82-%E5%B9%B8%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4396333757
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