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たりないお笑いファン、「だが、情熱はある」に釘付けになる

※著名人のみなさんのお名前を敬称略で記載しております。


「たりないふたり」がドラマ化されると聞いたとき、よく意味がわからなかった。
山里亮太をSixTONESの森本慎太郎が、若林正恭をKing & Princeの髙橋海人が演じると聞いたときは、もっと意味がわからなかった。

私はお笑いとラジオが好きで、特に「山里亮太の不毛な議論」はよく聞いているラジオのひとつだ。「たりないふたり」もリアルタイムではないにしろ見られるものはすべて見た(関係ないけどそのあとクリーピーナッツのラジオのヘビーリスナーになった)。

お笑い芸人の人生を映像化するというのはたまにあって、古くはビートたけしの『浅草キッド』(リメイクもされた)もあるし、最近の流れのきっかけはやっぱりピース又吉(原作)の『火花』なのかな?と思う。
何度目かわからないお笑いブームのなか、『べしゃり暮らし』や『コントが始まる』など伝記ではない「芸人もの」ドラマもたびたび制作されている。

お笑い芸人の人生にドラマがあることは痛いほど知っている。だって好きだから。だから、映像化に適した題材だということはわかっている。

そして今回「たりないふたり」のドラマ化が決まってキャストが発表されたとき──こんなことを感じた自分が本当に恥ずかしいけど──「なんでアイドルが?」と思った。

絶賛売り出し中(というにはすでに人気すぎるけれど)の2人の男性アイドルが、歌って踊れて見目麗しい彼らが、山里亮太と若林正恭の役を?なんで?
これがアイドルファンの間だけで褒めそやされて、お笑いファンからはちょっとした黒歴史になったりしたら……という無い「嫌な未来」が思い浮かぶ。
春日役の戸塚純貴やしずちゃん役の富田望生の名前を見て、「じゃあメインもいい感じの実力派若手俳優で固めてくれよ」と。有り体にいえば、「ジャニーズドラマ」として消化されたくない題材だなと思ったのだ。

誤解してほしくないのだけれど、アイドルを嫌いなわけではない。
特定のジャニーズ所属グループを応援していた時期もあるし、何を隠そう妹が髙橋海人の大ファンだから、特に彼の良いところはたくさん知っている。可愛らしい顔立ちにキレのあるダンス、アイドルの才能を持っている人だと認識している。
SixTONESは結構好きな楽曲が多い。森本慎太郎はバラエティ番組でもよく見かけるし、明るいキャラクタとフィジカルの強さが極めて芸能人的な、パワーを持った人だと思う。

それでも「アイドルかぁ……」と思った愚かな「たりない」私を、許してほしい。
私の不安は見事に裏切られるのだから。


第1話の冒頭。プロデューサーの島(演/薬師丸ひろ子)が楽屋をノックし、中に入って若林と会話を始める。ここではまだ若林の姿は見えず、声だけが聞こえてくる。

「あ……もう、時間ですよね」

この若林の──髙橋海人の喋り方が、若林正恭その人にしか聞こえなかった。
というか、姿が見えないから若林本人が喋っているのかと少しの間勘違いしていた。

この髙橋海人の第一声を聞いて、このドラマへの自分勝手な不安はすっかりなくなり、入れ替わるように期待がふつふつと沸いてきた。
そして同時に、ああ、最初に「アイドル」という肩書きで判断していた私はなんて嫌な人間なんだろう、と反省した。

見てない人はとりあえず、公式ツイッターに上がっている動画を見てみてほしい。たぶん私と同じ感動を味わえると思う。


時代を行ったり来たりしながら、その時々の彼らの苦悩を描く巧みな脚本も相まって、若林・山里両名だけでなく相方や家族、取り巻く人物たちがチャーミングに表現され、たとえモデルとなった人物のことをよく知らなくてもドラマとして純粋に面白い。

私が盛大に手のひらを返すのに一役買ってくれた髙橋海人、特徴的なおかっぱヘアと野暮ったい赤ブチ眼鏡でアイドルの香りを潔くかき消している森本慎太郎の2人のお芝居の素晴らしいこと。
誰が演じているかなんて序盤で気にしなくなって、ただ純粋に「たりないふたり」の人生を楽しむことができた。

私はそれなりにモデルとなった彼らのことを知っているし原案となった著書も読んでいるので、ある程度のお話の筋は理解しているのだけど、それでも2人が悩み苦しむ場面に心を動かされたし、ときに「たりない」彼らの思考に共感した。
それは山里亮太やオードリーのラジオでフリートークを聞いているときと同じ心である。

小道具やセットの細部に至るまで、当時の再現に拘っている美術もすごい。ポスターなんかは全て本物と同じ構図で役者バージョンで作り直している。
春日の旧居なんてお笑いファンは何度も見たことがあるだろうが、「むつみ荘」そのもので撮影している部屋のシーンはやはり説得力がある。

基本的に主役とその相方4人以外はモデルとなった人物の名前から変更されているのだが、賞レースの決勝進出者一覧やお笑い雑誌の表紙に実在の芸人ユニットらしきもじられた名前を見つけるとやっぱり嬉しい。
山里のかつての相方役が元コウテイの九条ジョーだったり(お芝居がとてもうまい)、同世代の売れっ子コンビ役をパンプキンポテトフライが演じていたり、ちょこちょこお笑いファンへのサービス的な配役があるのも楽しかった。

何といっても最大の見せ場は「漫才シーン」。オードリー、南海キャンディーズ、そして「たりないふたり」が賞レースやライブで実際に披露した漫才を役者陣が完全コピーする場面には笑いと同時に感動を覚える。

とりたててお笑いに興味のない同居人も私のついでに見始めて、彼女は「たりないふたり」を知らないからこそある種純粋に、初めて知る若林と山里の過去を楽しんでいた。
漫才シーンは「普通に漫才として面白い」と言っていた。本職が芸人でない2人が「面白い漫才」をすることがどれだけ難しくて、どれほどの苦労を要するのか。それは奇しくもこのドラマの中で丹念に描いている要素の一つだ。

そしてそんな同居人の様子を見て、才能ある「アイドル」2人が主演を務めてくれたことのありがたさを思い知った。
もちろん髙橋・森本両名のお芝居の技術や努力あってこそこの結論に至るのだが、「たりないふたり」やお笑い・ラジオの既存ファン以外の、ものすごい数の視聴者を彼らが連れてきたことは想像に難くない。

アイドルファンが、お笑いファンが、ドラマファンがみんな、「この作品はなんだかすごいぞ」と思っている。
これを機に「たりないふたり」の存在を知り、「テレビでよく見るオードリー・南海キャンディーズ」以上の、彼らの人間性のファンになってくれる人がいる。

それは伝記もの作品を世に送り出すときに制作チームが考える、最高のゴールなのではないだろうか。

私は髙橋海人ファンの妹に山里・若林それぞれの著書を貸すことになった。山里が書きまくっていたサイン本を持っていることが自慢できる日が来るとはね。
これも「だが、情熱はある」のおかげです。


ところで、ドラマの放映期間中、山里のラジオ「山里亮太の不毛な議論」に森本慎太郎がゲスト出演する機会があった。
山里と森本がいわゆる「どっちが喋ってるでしょう」みたいなことを軽くしていたのだが、正直あまりに似ていなくて驚いた。だってドラマの中の森本を見ているときは「山ちゃんの声そっくりだな」と思っていたから。
そこで私はいたく感動してしまった。森本慎太郎と髙橋海人は「似せている」のではなく「演じている」のだと、その演技力を以って「そっくり」と錯覚させているのだと気づいたのだ。

この文章は最終回の放送前に書いている。「アイドルかぁ……」とか思っていた自分を棚に上げて、終わってほしくなくてたまらない。もっと2人の演じる「たりないふたり」を見ていたいし、この役者陣であらゆる視点からのスピンオフが見たいと思っている。
きっとこの作品に登場する全員に、それぞれのドラマがあると思うから。

だけどそう思ったまま、今度は「たりないふたり」本人の、オードリーの、南海キャンディーズの、そして役者陣の、King & Princeの、SixTONESのドラマを自分の目で追いかけてみるのも一興ではないだろうか。


惨めでも無様でも逃げ出したくても泣きたくても青春をサバイブし、漫才師として成功を勝ち取っていくふたりの物語。しかし断っておくが、友情物語ではないし、サクセスストーリーでもない。そして、ほとんどの人において、まったく参考にはならない。だが、情熱はある。

「だが、情熱はある」タイトルナレーション

読んでくれてありがとうね