被害者の自死願望を殺人の理由にしてはならない

新聞の朝刊を眺めていて、久しぶりに気持ちの悪い憎悪を抱きました。座間9遺体事件です。2017年に起きた事件で、今年9月30日に初公判が行われました。事件の内容は強姦と強盗を目的とした連続殺人であり、遺体は切断した上で遺棄するという猟奇的なものです。闇金ウシジマくんのような生死の狭間を描く漫画の世界の出来事であれば興味深く読みそうなものです。しかし現実の事件とあらば人格のあった人物の命が失われたとあり、耐え難い気持ちになります。

初公判では弁護側は被害者について「死を望む気持ちがあった。自らの意思で(白石被告のもとへ)行った」と論じているそうです。一方で被害者はいずれも暴行を加えられた上で絞め殺されています。弁護としては苦しい言い訳にしか見えません。担当弁護士は非常に難しい仕事を引き受けられたと想像します。

弁護として苦しいとは思いますが、被害者に死ぬ意思があったかはひとつの論点となるようです。私の意見としては「被害者の死ぬ意思の有無」は殺人事件の論点としては論外だと思っています。当人に死ぬ意思があろうが無かろうが、誰もが誰をも殺してはなりません。それは自分が自らを殺めるのも同様です。

大小あれど一度は死にたいと感じたことがある方は一定数いらっしゃるのではないかと思います。私は強く死を臨んだことはありませんが、中学生の時に思春期と反抗期を患わせた際に自死について考えたことがあります。XーJAPANのhide氏の自殺を皮切りとして若年者の自殺が相次いでいた頃でした。自殺報道によって自殺が誘発される現象をウェルネス効果と呼ぶそうですが、今思えばこの現象に嵌っていたのだと思います。ベランダを眺めながら首をくくったら楽に死ねるのかと考えていたところで、父親に昼食を誘われて我に返りました。それと同時に思春期と反抗期を終えた覚えがあります。

自死について興味を抱いた当時の私がうっかり白石被告の様な人物と繋がってしまっていたらと思うと背筋が凍ります。家が近ければ、もしかしたら興味本位で会っていたかもしれません。私の自死願望は父親との何気ない会話で解ける程度のものでした。被害に合われた女性8名の中には、その機会を得られないまま殺された方も居たでしょう。仮の話ではありますが、これを「死を望む気持ちがあった」と説明されるのは甚だ違和感があります。

死人に口なしです。被害者がどんな気持ちで白石被告に会ったのかは想像の域を出ません。判決が被害者の意思の所在に左右されない内容となるのを願います。

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