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誘拐

 こみ上げる胃液を喉の奥へ押し戻す。取り返しの付かない事をしてしまった。部屋の中には今、少女が眠っている。四肢をぴんと伸ばした状態でベッドに縛り付けられるその身体は裸で、すべらかな腹がゆっくりと上下して、紛れもなく生命であると主張している。小さな口には彼女の小さな下着を詰め込み、ガムテープで塞いだ。誘拐した直後の高揚がそうさせたが、その哀れな様子を見るうちに罪悪感が押し寄せて来たのだから勝手なものである。

 衆目はあったように思える。軽く小さな身体は何の抵抗もなく車の中に収まった。何が起こったのかわからない顔をしているうちにアクセルを踏み込み、それほど人通りのない道まで走った。事態を把握した少女はドアを開けようとしたが、この速度で飛び降りれば命の保証はない、そういった旨の言葉を発するとすぐに手を離した。泣く事もなく、ただ不安そうな顔でシートベルトをつける少女に微笑ましささえ感じた。真夜中まで意味もなく走り続け、外灯も頼りなく思える闇の中で少女に薬を飲ませた。見知らぬ土地を出歩く勇気はなかったのだろう。大きな抵抗もないまま差し出された水で飲み下す様子は、儚げだった。

 身体を蹂躙する気にもならず、ただ眠る少女のそばに立ち尽くしていると少女は目を覚ました。このためにしつらえたグロテスクなほどに可愛らしい部屋を眺め、それから私の顔を見て、小さくくぐもった声を出した。
「おはよ」
窓の外はまだ暗い。ちぐはぐな挨拶に戸惑う様子を見せる少女は、しかし泣き出す事もなく天井を眺めていた。
「おっ、大声を出しても、無駄だから。こんな山奥に来る人はいないし、そもそも、私が許可しない限り入る事も出来ない」
事実だった。道はある程度整備してあるものの、片道通行の細い道である。この日のためだけに買い取った深い山奥の家に寄り付く人はいない。口元のガムテープを剥がし下着を取り出すと、少女は、みず、と小さく呟いた。

 1時間ほどが経った。少女はそれ以降言葉を発する事もなく、ただこちらを見つめている。誘拐したはいいが、いざこれほどまでに細く小さな身体を見ると怖気付いてしまう。やろうとしていた事もほとんど出来ないまま、食事を摂るために部屋を出ようとし、そこで初めて異変に気付いた。
──部屋の扉が開かないのだ。何かの間違いだろうとガチャガチャとドアノブを捻る。鍵がかかっている訳ではないようだ。扉の外に押さえるものがある。強く体当たりをすると、向こう側から、あはは、と声がした。
「な、なんでっ」
部屋の明かりがちらちらと点滅する。少女を見るとやはり不安そうな顔をしていたが、その程度だった。
「知り合いか!?お前の!」
ほとんど叫ぶように問い詰めると、少女は哀れむような顔でこちらを見て、首を横に振った。
「なら、どういうことだ!ここに人はいないはずだ!後を追って来た人もいない!誰なんだあれは!」
少女の顔の横に拳を振り下ろす。
「わたし」
少しも怯えた様子を見せずに少女が言った。
「おにいさん、ごめんね、なんだかお腹が空いちゃって……」
ギイ、と扉が開く音がした。振り返ると、黒く大きな何か、がゆっくりと部屋を侵食していった。

 ベッドを取り囲むように近づいて来る。天井をも覆っていく、それ、は人肌ほどの体温があった。ひたり、ほおに触れた何かはゆるゆると服の中に潜り込んで、全身を愛撫するように這い回る。
「あっ、あ、」
情けない声が出る。少女はその様子をやはり哀れむように眺めていた。目尻から細い何かが侵入してくるのを必死に目を瞑り抵抗するが、意味をなさないものだった。穴という穴から何かが入り込んで、内臓を埋めていく。体内を進んでいく何かの感触が生々しく脳に刻まれていき、人体模型で見たままの構造だ、とどこか他人事のように考えた。少女はいつのまにか拘束を解き、目の前に立っていた。否。もはや天地も危うい中、目の前に存在していた。
「こんな山奥に来る人はいないんだよね。それなら、お兄さんに連れて来てもらわないとね」
どうやら少女はこの家を気に入ったようだった。視神経を舐めずられ、脳を、粘膜を嬲られ、私は一生味わうはずのなかった快楽に射精した。どうやら私は、取り返しの付かない事をしてしまったらしい。

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