昨日、うちに、悪魔が来た。悪魔はヒト型ではなく、どちらかというと猫に近い。真っ暗だがその毛は光に当たるとカラスアゲハのように緑がかった光沢を見せた。金の瞳で、膝の上に乗るくらいの大きさのそれは、名前をコモといった。
「いえね、悪魔と言っても羽ばたく以外には何も出来ない下級悪魔ですから、どうかしばらく置いてもらえませんか。行くアテがなくて」
コモはわさわさと八本の手足を左右合わせ、死んだセミのような姿勢で懇願した。私はコモのお腹の毛を撫でながら了承した。ペット可の物件だし、何か生き物を飼おうか迷っていたこともある。食事は出来ればヒトだとうれしいんですが、と言ったので一度はベランダに放り投げたが、サラダチキンでいいと言ったのでよしとする。
コモに悪意があるのかないのか、ただの人間である私には判別出来なかったが、正直、将来性のない人間だったので、死ぬなら死ぬでそれもアリだった。貯金も財産もさほどない。ぼんやりとテレビを眺め、安酒を呑んで、缶を片手に眠って朝シャワーを浴びるような生活だった。
「居心地がいいですね、ここ」
手足をだらだらと床に伸ばしながらコモが言う。
「褒め言葉じゃないですよ。地獄みたいですねっていう意味です」
「喧嘩売ってんの?」
「星澤さんは、願い事とかないんです?」
身じろぎするモップのようにして這い寄るコモを適当に足でじゃらしながら、叶えてくれるの、と訊ねる。
「いえ別に」
そういうとコモはふくらはぎにしがみ付いた。
「ただまあ、それを語り合うのも中々楽しいでしょう。教えてくださいよ、星澤さんの願い」
もこもこの塊を撫でながらしばらく考える。金も人望も、生活する分だけあればよかったので、別にないかなぁ、と答えた。コモはうるうるとうなりながら撫でられるままになっている。
それからしばらくして、会社をクビになった。元々辞めようと思っていたので、雀の涙ほどの貯金を切り崩して生活していると、コモは何度も願いがないのか私に問うた。
「願い、叶えないと死ぬの?いい加減億劫なんだけど」
そういうとコモは、私の足をわさわさと包みながら、ははは、と笑った。
「叶えませんけど、これは悪魔のサガのようなもんですよ。ヒトを堕落させるのが」
「願いを言ったらどうなる?」
私はコモの腹をむにむにと爪先で押しながら聞いた。
「どうもなりません。ええ、特に意味はないです」
コモはくすぐったそうに答えた。
就活、というほど積極的に仕事を探したわけではなかったが、その日暮らしの金を手に入れるための仕事に就いた。相変わらずコモは家にいる。帰ってみたらイケメンや美女に変わっていることも、玄関開けたら地獄の三丁目、という事もないまま五年が過ぎようとしていたある日。いつも通りに帰ってきて、居間に入ると、おそらくはコモと思われるもこもことした扉が机の上に置いてあった。闇堕ちしたどこでもドアのようなものは、居心地悪そうに鎮座している。
「は?」
触れると、古めかしい音を立てて扉が開いた。中には黒い炎が燃えていて、叫び声が聞こえる。近所迷惑だな、と思い一旦閉めると、ちょっと、と声が聞こえた。
「うるさいんだわ」
「いや多少は驚いてくださいよ。星澤さん、あなたちょっと気が狂っているのでは?」
「それほどでも」
褒めてませんよ、とため息をつきながら再び扉を開けたコモ(ドア型)は、尻尾の先を矢印に見立て、遠くに見える何かを指した。
「向こうに、モノリスが見えるでしょう」
「モノリス?」
「黒い板のようなあれです。そこの横に私の父がいるんですけど、あのう、会いに行きませんか」
口ごもるようにコモが言う。
「なんで」
「親に挨拶に行くと言ったら、ほら、意味はわかるでしょう?」
毛むくじゃらが何を言っているのか、その時ようやく理解したが、納得は出来なかった。扉を再び閉めると、コモは普段の姿に戻り腕にしがみ付いた。
「ダメですか?悪魔の嫁はいいですよ〜。好きな事を好きなだけしていればいいのですから」
「悪魔の嫁って時点で良くないんだよね」
「どうしてですか!?ヒトだって、悪魔のようなもんでしょう!?」
「悪魔のようなもんと悪魔は違うんだよ。しつこくすると追い出すぞ」
そういうとコモはあからさまな嘘泣きをしながら黙った。
「せめて何か役に立ってから言ってよ。アンタ、サラダチキン食ってただけでしょうが」
ぴた、と泣き止むと、コモは腕から離れて、目線を合わせるようにバサバサと羽ばたいた。
「それが願いですか?」
「ちげーよ。常識を問うてるんだよ」
「願いを叶えるのはシャクですが、じゃあ、頑張りますね」
そういうとコモは、むくむくと膨れ、端正な顔のヒト型になった。どうやら猫型なのは怠けていただけらしい。ただし中身はただのヒモである。私は、これからの生活を考え頭を抱えた。
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