11. 2度目の乳腺外科、揺れる心

 次の診察予約は午後1時。この日の乳腺外科は何故だか激混みで、診察室の前にお詫びの張り紙が出されていた。長く待ちそうだ。
 順番待ちの患者には看護師から先にお昼を勧める声があったが、まだ病院に慣れていない私は食堂や売店を使うのも気後れして、ひたすら待つことにした。
 診察室の前も混んでいたので、通りにある長椅子に座る。
 待ち時間は、ちょうど今日に割り当てられていた一分間スピーチの内容を練りつつ過ごした。明日もしも振替で当てられた時に備え、小さなメモ紙に書き出す。「私の就職活動」…ネット検索を中心に探しています…、なんて、仕事の検索なんてなにもしてない、乳癌の検索しかしていない。

 ふと目を上げると、T先生が外来受付の扉から出てトイレに向かうところだった。思わず目で追う。先生も一般用のトイレ使うんだ。
 立ち上がった姿を初めて見たけど、椅子と一体化していて分からなかった、T先生って、ソフトクリームみたいな体型だなぁ。
 診察室で見た快活な表情とは違い、なんだかむっつりと沈んだ顔をしている。トイレから戻る途中に目が合ったが無表情で通り過ぎ、私から数列離れたところに座っている女性に目礼して、受付の中に消えた。2週間前に一度診察受けたくらいじゃ、覚えてないよなぁ。

 14:20 呼出機が鳴る。
 扉を開けると私を見たT先生は、あ!っと驚いた顔で固まり、何か言いかけたのを止め、一拍置いてから、目を合わせたまま、ふぅ疲れちゃったぁ、とでも言いたげな、困ったような表情で息を吐いた。
 なんだ?なんだよ、顔芸。喋ってくれてもいいのにー。


 Z病院の医者が着る白衣は人によって様々だ。病院でのルールは特にないようで、T先生はいつも半袖のケーシーを着ている。スタンドカラーの、理容師とかも着ているオールドスクールなヤツ(ちなみにケーシーのネーミングって…と思ったらやっぱり由来はベン・ケーシーだった。ケーシー高峰もね。)しかも淡いクリーム色。汚れは目立たないかもしれないけどちょっと微妙。
 K病院の医師はドクタージャケットの腕にブルーの刺繍でネームを入れていたが、ぼんやり見つめていると、T先生の袖にも名前のタグが付いていた。A・TSU・RO・TA・YA・MA、…あれ、T先生こんな名前だったっけ?…って、田山淳朗かよ!A.T、医療服界に進出していたとは。先生、田山淳朗着てたのね。
 (そして知った、医療界で生存するファッションデザイナーたち。花井幸子、渡辺雪三郎…大御所たちもこちらで活躍されていたのだった。学生時代、装苑を毎号舐めるように見、ファッション通信を毎週録画していた身としては胸熱…かつ複雑…。)
 
 T先生とは違って形成外科の先生たちは、全員Vネックのスクラブにドクターコートを着ている。スクラブの色は様々で、E先生は、ブルーと杢グレー。杢グレーはジャージのような素材でちょっと洋服っぽくて、彼の細身の体型によく似合っていた。
 形成の先生の装いはパリっとしていて、特に清潔感を感じる。科の特徴かもしれない。身だしなみが整っている人はその分美意識も高い(きっと)。私がE先生に任せようと思ったのは、これが大きな要因だった。美意識に賭けた。


 そんなことより、Z病院で受けた検査の結果。
 転院前と同じく、極初期の非浸潤癌。
 「よく見つかったな、っていうくらい。血液検査も問題ないねー。」

 よかった。貧血の数値もクリアかな。年末の鉄剤注射の効果が続いてるみたい。

 術後のホルモン剤治療はやらないかもしれないそうだ。非浸潤癌の場合はしないことが多いらしい。
 抗癌剤や放射線と比べるとそれほど負担がないと思われがちだが、ホルモン剤の服薬は5年から10年続き、副作用も大きい。
 T先生には言わなかったが、私は臼蓋形成不全のため、10年ほど前に通っていたバレエのレッスン中股関節に痛みが出てから定期的に整形外科に通っていた。ホルモン剤治療で骨粗鬆症のリスクが高くなると、将来人工関節になる可能性が増える。出来るならホルモン剤は避けたかった。
 これで肉体的、経済的にも負担がだいぶ変わる。すーっと晴れやかな気持ちになった。あの時生検を選んで正解だったと思える。

 「あの状態だったら、ふつう経過観察ですよね?」
 「うーん、そうだね。」
 大きな病院ほど、そうだろう。あの時選べる環境でよかった。

 「浸潤癌の元は、みんな非浸潤癌?」
 「…そう言われてるけどね。確かめようがないけどね。」

 それはそうか。浸潤した状態で見つかる癌の成り立ちを把握するのは難しいだろう。
 追いかけるように
 「そうだとは思うけどね。」
と続いた。

 現金なもので、少し気持ちに余裕が出たからか、次は何がくるのかとワクワクにも似た感情が湧きあがってきた。「立ち向かってやろうじゃないか」と笑いだしたくなる。

 それにT先生の喋り方は明るくて可笑しい。あとからジワジワくる。
 人懐っこくて、語尾がちょっと甘えたような感じ。

 「センチネルリンパ節生検はやりますか?」
 「うん。でも寝てる間に取っちゃうから!」

 即答。
 あっけにとられ、気負いが緩む。話しぶりを思い出して、何度も笑った。

 癌を摘出することに関しては、全くお任せだし訊くことは何もない。
 ただ、術中や術後の病理診断で取り残しが見つかった場合、どうなるのかが気に掛る。

 病理で、乳輪付近に癌が見つかったら?
 「切除。」
 目をクリクリさせて
 「でも局麻で取っちゃうから!」
 「きょくま?」
 「局所麻酔。」

 あぁ、あっさり言うけど、意識ある中で無くなるのか…。
 T先生の言い方って、勢いあるな。

 ASMは乳輪のところが壊死してしまうこともあるそうだ。乳輪は胸からくる血流の一番遠いところだから。可能性としては3~10%。

 「たばこ吸ってる?」
 「吸ってません(問診票にも書いてるけど)。」
 喫煙は血流確保には一番のリスク。一度も吸ったことないんでね。だからこの時はこの壊死について特に気にも留めなかった。

 T先生が描く胸の絵を見ながら、当たり前のことにやっと気付く。
 乳癌は乳腺の中に出来ていて、その乳腺は乳頭に向かって伸びている。だから乳頭を取る。乳輪部分は色のついた皮膚なので、癌までの距離が確保できていれば、取り除く必要はない。胸の先っちょを切り落とすイメージだったけど、乳首は「くり抜く」んだな。
 ASMは”残せるものは残す”乳癌治療の、新しい手術法なんだ。

 乳頭再建について乳腺外科でも質問すると、
 「陥没乳頭って見たことある?」
と逆に質問が返ってきた。
 「僕なんか、乳頭が無い見た目は、陥没乳頭みたいに見えるけどね。」

 そうか。乳輪をいじって小さくなるより、あまり気にならないなら、術後に再考してみるのでもいいかもしれない。
 とにかく、胸にパッチワークが出来るのは絶対に嫌、それを回避するのが一番の希望。もし乳輪切除になっても、広背筋でパッチ無しに出来るならいい。
 もう色々考えられない。

 直前に形成外科で質問してきたことが分かると、再建希望を伝えるのは来週に延期になった。
 もう気持ちは広背筋にほぼ決まってるけどね。

 「7月下旬から8月とかですかね。」

 手術時期を確認すると、T先生は
 「ごめん!7月は無理!!ほっといても8月になっちゃう。」
 無茶だよーと言いたげな勢いでこちらに体を向け

 「なるべく早くに手術をして差し上げたいけど!」
 差し上げたい…ヘンな言い方。
 「ここは癌の病院で!」
 「待ってる人が沢山いるから!」

 焦っていると思われたのか、念を押すように説明された。初診の時に言った予定日のこと、先生は覚えてないんだな…。
 

 会計で精算を済ませる。形成での診察は前回の補足になるようで無料だった。
 予約から診察の流れまで、両科の連携も取れていた。質問には毎回丁寧に答えてくれる。再建の整容性は技術や術式だけの問題でないことが分かったし、チーム医療である以上、医師にこだわるのはあまり意味が無いことかもしれない。
 病院単位で信頼出来そうだと感じられたことは、大きな心の支えになった。


 帰り道、隙間風が吹いたように、寂しさが差し込む。
 自分の胸がどうなろうと、世の中は何も変わらない。こだわりを通すだけの価値が自分にあるのか。
 後ろ向きの、諦めの気持ちに包まれる。私は一人だ。
 たまらず駅のホームから、JさんにLINE。

 「この先どうなるかは分からないけど、現時点では順調、です(^^)」
 「よかった!楽しいの貯金しよう!」
 返信に涙が溢れる。


 翌朝の授業前、お休みだったからと一分間スピーチを促された。
 Z病院への転院が決まって以降、皆勤だった講義を毎週休むようになった。毎日作っていた弁当もパッタリ止めてしまった。休む度に就職活動してるの?と突っ込まれたが、適当にごまかした。
 昨日作ったメモを持って教室の前に出る。ストッップウォッチを押して話し始めたが、文字が小さ過ぎてよく読めない。動揺して声が上ずり細かく震えだす。事情を知っている講師が横から視線を投げる。不思議そうに生徒が顔を上げる。なんとか話を作って繋げた。


(2018年7月3日~7月4日)

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