最近考えていること②
墓と葬儀に関する話、の続き。
↑↑↑これを簡単に要約すると、
「家族葬」という言葉が生まれたように、葬儀や墓などが小さくなったりあるいは形が変わってきた今、それはただお金がかかるだけの余計なものと思われるようになった。
「俺の墓はアイスの棒1本でいい」
という父の言葉は、大袈裟な墓は無くても、故人を想起し祈るきっかけとなるトリガーとしての「もの」が何かあればそれでいいということを表していると思う。(前回は「トリガー」じゃなくて「リマインダー」と書いた気がするけど、こっちの方が適切かも)
という話だった。
村社会の時代は、葬儀は地域住民で協力して用意された。バブルの時代には葬儀や墓は豪勢なものだった。現在、社会や家族の繋がりが薄れたことで、墓のかたちが変わり、無くなるような動きもある。
「社会の鏡としての墓地」という言葉は、そのことを上手く表現していると思う。
つまりは、墓のかたちは社会の動きの後からついてくるものだ、ということだ。家族や社会の繋がりの太さが、二次的に墓の形に影響している。
けれど、一方で自分の中には、そうした社会と墓の関係性に反する感覚もある。
葬儀や墓には、家族が半強制的に集まる強い力を持っていると感じることがある。
半強制的、という表現は適切じゃないかもしれない。そのことを批判しているということでは全くなくて、むしろありがたいものだなと思っている。念のために強調。
葬儀や墓が、家族の繋がりや所属意識を強めているんじゃないか?
「社会(や家族)の鏡としての墓地」でありながら、墓地もまた家族の繋がりをつくっていて、それらは相互に関係している。
ただの鏡にしてはあまりに高価すぎる鏡だ。もっと人に影響を与える大切な役割を与えられるんじゃないか?
葬儀や墓は、家族が集まる口実だ。
そのことに気づくと、そんな機会をつくってくれた故人に対する感謝の思いが自然と込み上げてくる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?