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私をその輪に入れないで、でも少しのぞかせて

未満建築デザインファームの対話イベント「WE部」に参加してきた。

正しくは、「気づいたら参加していた」なのだけど。

今日は、そのメモを少し。


傍から見ているだけの予定だったのに

3月下旬、とあることをきっかけに自分のFacebookを整えた。ずっとやろうやろうと思っていたのだけど、やるきっかけがなくてやっていなかった。

Facebookを整えてからは、知っている社会人をポツポツとフォロー。

未満建築の主催者である大山さんからは、「WE部」のご紹介をメッセージでいただいた。
「参加させていただきます!」
と勢いの良い返事をしたけど、この時、自分が喋ることになるとは思ってもみなかった。


当日、イベント会場になっている改装中で閉まっているフォーラス前に行くと、アーケードの端っこに椅子が15脚ほど、2区画に分けて置かれていた。撮影機材もある。

向かって左の区画が聴衆の場所らしく、そっちに座ろうとした。けど、大山さんに呼ばれて、そうではない右の区画に座ることになった。カメラがこちらに向けられている。

その時やっと、自分が話す側だと気づいた。


半公共空間が市民の活動を後押しする

イベントの趣旨は、ざっくり言うと、「都市の公共空間を利活用していくために、街中の公共空間を使って市民が対話をする」という感じだ。

だけど、我々が座っていた場所は公共空間(?)という場所だった。フォーラスの閉じた壁面の外とはいえ、一応その境界から1m程の範囲の白いタイル部分はフォーラスが所有する敷地だったからだ。

制度上は所有者がいる場所でありつつも、アーケードも相まって公共空間とも言える。タイルの違いはあれど、中央部分との空間の使い方に大きな差は無い。

こういう、「所有者が存在しつつ公共空間とも言える空間」は、市民が活動を起こす上で重要だと思った。ここを使う時、公共空間を占領しているという罪悪感のようなものがやわらぐ。行政からの許可の必要もない。


イベントの終盤、「若者はどういう公共空間を望んでいるのか」と聞かれ、学生は他にも2人いたけど、このイベントに来た時のことを振り返りながら、こんな風に答えた。

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僕もそうですが、若者は、(あとから反省すると、これは主語が大きかった)道の隅で何かが行われているのを見かけた時、自分はそこに加わりたくはないけど、少し距離を置いて眺めてみたいなとは思います。

イベントの参加者と通りすがる歩行者が直接的に関わりを持てる仕掛けがあることはもちろん大事ですが、少し距離をとりながらそこに滞在できて、イベントに関わらなくてもそこにいられる
居場所が用意されている方が、若者(これも反省)にとっては理想的な状態なのではないかなと思います。

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あくまでこういう状態を入口として、少しづついろんな団体とかコミュニティに入っていけばいいのではないか?既存の参加者との直接的な関わりの仕掛けは、その入口の後の第二、第三段階として用意すれば良い。


遠い将来の「日常」の風景を
現在の都市空間で実験することの難しさ

イベントの中でも話したが、自分の中で少し言語化された問題がある。

あるイベントを「イベント」として公に打ち出すと、(つまり、イベントページを作ったり、Web広告やチラシを出したりすると)、それを見た市民はイベントに来ることを「目的」に電車やバスで足を運んでくる。「あの見慣れた場所になにかが置かれて、いつもと違う風景が見られるんだ。なんだかお祭りみたいだな。珍しいな。」なんて思いながら。

そして市民は、その風景が一過性のものであり、非日常的なのものなのだと思いこむ。

ただ、このイベントは、市民にそうは思って欲しくないはずだ。

「フォーラスの前の白いタイル部分のようなわずかな公共空間でももっと日常的に自分が使いこなしていいんだ」、「こういう風景がこれから私の日常に溶け込んでいくんだ」と思ってもらうのが、このイベントの成し遂げたいことのひとつであるはずだ。

かと言ってゲリラ的にやるのは、この機会に気づけない人たちが出てくることを避けられない。


都市や建築のプランナーは、遠い将来の理想的な「日常」の風景を頭の中に思い描く。

社会実験とは、その理想の日常風景から物的なものを切り取り、現在の都市空間にポンっと置いてみるようなものだ。すると、それは現在の人々の目には「非日常」の風景として映り、お祭りごとに群がるように集まってくる(青葉通駅前広場化計画の社会実験「MOVE MOVE」のような現象)。目先の賑わいだけ見ればこれで良いのかもしれないが、長期的に見るとあまり良くないことなのかもしれない。

理想像のどの部分をどの程度切り取って現代の空間にどんな形で実験するか、ということはその都度考えていく必要がある。

そしてそれをどう広報するか。あるいは、広報しないことでもっと日常に溶け込んでいるように見せていくのか。

このバランス感はとても難しい。


イベントを終えて

「まちの(半)公共空間を使って市民が対話をする」というこのイベントの形式自体が、ここで話された話の内容以上に、「公共空間をどのように使うことができるか」ということをわかりやすく通行人に示していた。

1時間半、これまでに体験したことの無い、とても貴重な経験だった。


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