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【小説】不安

幸せな結婚生活



――ガチャ。
遠くで玄関のドアが閉まる音がして、あたしは目が覚めた。

明美「……蓮?」

ぼんやりとしたまま時計を見る。
午前5時。
カーテンの隙間から爽やかな光が漏れ出て、寝室を少しだけ明るくしていた。

さっきミルクをあげたのが4時……1時間でも眠れたのはありがたい、か。

ベビーベッドに視線を移すと、愛する息子は規則正しく寝息をたてていた。ほっぺたがぷにぷにしていてかわいい。小さいながらすぅっと通った鼻が蓮に似ている。

あたしは眠れる天使を起こさないよう、忍び足でリビングに向かった。

明美「おかえりなさい」
蓮「明美、起きてたの?」
明美「ドアの音で目が覚めたの。お仕事?」
蓮「締切近くてさ。ずっと作家と話してた」

蓮は出版社で漫画雑誌の編集長をしている。
大学時代からずっと本に関わる仕事がしたいって言っていたから、就職が決まったときの蓮はすごく喜んでいたな。
でも、こうやって朝まで仕事をしないといけないこともあるらしくて、少し心配。

明美「お疲れ様。ご飯食べる? 何か作るよ。あ、お風呂沸かそうか?」
蓮「大丈夫。会社で軽く食べたし、駅前の銭湯寄ってきたから」
明美「そう……」
蓮「瑞樹は?」
明美「ぐっすり。4時にミルクあげたから、もう少し寝ていると思うわ」
蓮「そっか。いつも任せっきりでごめんな」
明美「ううん。あたしは大丈夫」
蓮「今度の休みは俺が瑞樹の面倒見るから、気分転換に出かけておいで」
明美「ありがとう」
蓮「うん。じゃあ、俺はソファで寝るから」
明美「え、ベッドで寝ないの?」
蓮「寝心地がいいと遅刻しちゃうからさ」
明美「そっか……。あんまり無理しないでね」
蓮「ありがとう。じゃあ」
明美「うん、おやすみ」

蓮がソファに沈むのを見届けてから、あたしは寝室に戻った。

結婚生活ってこんな感じでいいのかな。
蓮の仕事が忙しいこととか、あたしが育児でバタバタしているのは仕方ないけれど。もっとお嫁さんとして蓮を支えたほうがいいよね?
ベッドに体を預けて、睡眠不足の頭で色々考えるけど、全然いい案が思い浮かばない。
むしろ、このままじゃダメだって思っちゃって、どんどん落ち込んでいく。

そんなとき、瑞樹がぐずり始めた。
リビングにいる蓮を起こさないよう、急いで瑞樹を抱きかかえてあやす。

寝室の中を行ったり来たりしながら揺れてみたり。お腹がすいたのかと思ってミルクをあげてみたり。

ようやく落ち着いた瑞樹をベビーベッドに戻すと、さっきまでのモヤモヤがなくなっていたことに気が付いた。

とにかく、あたしにできることはなんだってやろう。
勝手に落ち込んで蓮に心配かけたくないし。お母さんのあたしがウジウジしていたら、瑞樹も不安になっちゃうよね。

大丈夫。もっともっといい家族になれる。
弱音なんて吐いてらんないわ。
蓮と瑞樹のために、もっと頑張らなきゃ。

あたしは寝室のカーテンを閉めなおして、お弁当を作りにキッチンに向かった。


息抜き



夏が終わり、街路樹が秋の支度を始める頃、蓮の仕事がようやく落ち着いてきた。

どうやら大型のイベントが終わったらしく、ひとまず終電前には帰れるようになったらしい。
それでも忙しいのには変わりないから、少し心配なんだけどね。

そして今日、蓮はあたしにひとりの時間をくれた。

蓮「それじゃあ、行ってらっしゃい」
明美「うん」

瑞樹のこともあるから、2時間だけのリフレッシュタイム。
思い切り楽しむつもりだったけど――

明美「お義母さんもありがとうございます」
蓮の母「いいのよ。私だって、よく自分の時間を貰ったもの。明美さんも楽しんで!」

どうやら、蓮は男ひとりで赤ちゃんの面倒を見るのが不安だったみたい。

お義母さんが来るのを知ったのは一昨日の夜。
蓮が仕事から帰ってきて、ふいに「明日、うちの母さんくるよ」と言われた。

お義母さんがとても良い人なのは知っているわ。
でも、あたしはすごく気を遣うから、もっと早く知りたかったな!

あたしは本音を飲み込んで、前日に部屋中を掃除して、足りなくなっていたベビー用品も多めに買っておいた。

明美「あ、冷蔵庫の中にお菓子があるので、良かったら食べてください」
蓮の母「そんなお気遣いいいのに。でも、ありがとう」
明美「いえいえ、何かあったら気軽に連絡してくださいね。すぐに戻るので」
蓮「そんなに俺らが心配?」
明美「そうじゃないけど……」
蓮の母「うふふ。明美さん、ゆっくりしてきてね」
明美「ありがとうございます」
蓮「行ってらっしゃい」
明美「うん、行ってきます」

今日を楽しみにしていたのに、なんだか後ろ髪を引かれる……。

雲ひとつない晴れた空の中、あたしは曇った顔で歩いた――

ゆりな「え、今日来てよかったの?」
明美「そんなこと言わないでよ~。気になっちゃうじゃん」

久しぶりに会った親友はあたしの不安を大きくさせた。
それに合わせるかのように、カフェのBGMが速いテンポの曲に変わる。

ゆりな「だって……」
明美「分かってるよ! でもゆりなに会えるのだって楽しみだったんだも~ん」
ゆりな「ごめんごめん(笑)」

ゆりなは大学からの付き合いで、瑞樹が生まれる前もよく一緒に遊んでくれた親友。
出産直後はなかなかお茶しに行けなかったから、今日の予定は絶対に外せなかった。

ゆりな「でも気軽に外に出られるようになって良かったね」
明美「家の近くだけ、だけどね~」
ゆりな「いいじゃん。家だと蓮さんに気を遣わせちゃうだろうし……。わざわざ外で時間潰しそうなタイプっていうか!」
明美「まあね(笑)」

ゆりなと話しているうちに、だんだん心が落ち着いていく。
家族は大切だけど、こうやって友達となんの気なしに話すのってやっぱりいいな。

ゆりな「瑞樹くん、今どんな感じ?」
明美「うーんとね。あ、こんな感じかな」

あたしはスマホで撮った瑞樹の写真をゆりなに見せる。

ゆりな「もうこんなに大きくなったの?」
明美「早いよね~。数か月で2倍くらいの大きさになってんの」
ゆりな「すごいなあ」
明美「最近は寝ているときに足をバタバタさせるのがかわいくてさあ。この動画見て」
ゆりな「かわいいー! 夢でも見てるのかなあ」
明美「多分ね~」

そういえば、こうやって瑞樹のことを話したのは初めてかもしれない。

蓮は積極的に育児を手伝ってくれるけど、仕事が忙しくてふたりで話す時間がない。

お義母さんやお義父さんはよく気にかけてくれるけど、なんとなく話しづらいというか……。
蓮から実家の話を聞いたときに、あたしの家族とはあまりに違いすぎてびっくりしたからかな。
あたし達がちゃんと家族ができているか分かんなくて、気が引けちゃった。

あたしのママは田舎に住んでいて気軽に会えない。それに、今も仕事で忙しいから電話だって全然できないし。

ゆりな「瑞樹くんはしっかり成長していて、ゆりなもちゃんとお母さんになってるんだね~」

よかった。
こうやって話せる人がいてくれて。
なんだか報われたような気持ちになる。

明美「ありがとう」
ゆりな「なに、急にしおらしくなって~」
明美「うるさいな(笑)」

自分はひとりじゃないんだって思わせてくれる親友に感謝しかない。

あたたかな気持ちに浸っているあたしをよそに、ゆりなが出産時の話をしてきた。

ゆりな「あ、そういえば、立ち会い無しで、ひとりで瑞樹くんを産んだんだって?」
明美「そうだよ?」
ゆりな「蓮さんは?」
明美「編集長になったばかりのころだったから、忙しくて連絡気づかなかったみたい」
ゆりな「ええ!? そんなことある?」
明美「仕方ないじゃん」
ゆりな「じゃあ、義理のお母さんとかは?」
明美「緊張してまともに話すこともできないのに、いきんでいるときの顔見られたくない」
ゆりな「明美のお母さんは?」
明美「田舎に住んでんだから簡単に呼べないでしょ」
ゆりな「私は?」
明美「夜中だったから」

それに、今みたいに気を遣わせたくなかったから。
旦那さんがいない分娩室があまりにさみしくて泣いちゃったところなんて見せられないよ。

ゆりな「呼ばれたらすぐに行ったのに」
明美「また今度ね」
ゆりな「次があるなら、そのときこそ蓮さんに来てもらって!」
明美「確かに」
ゆりな「も~(笑)」

ゆりなのおかげで、あたしに覆いかぶさっていた雲が晴れたような気がした。

さて、家に帰ったらみんなでご飯かな。
お義母さんが好きなものなんだっけ……まあ、家に着いてから聞いたらいいか。

ゆりなとの時間を楽しんだあたしは、カフェに来たときとは別人なくらい軽い足取りで家まで帰った。



疑惑――



ゆりなとカフェに行ってから、色んなことが順調に進んでいる気がする。

蓮が仕事に行く前にお弁当を作って、大事な会議の日にはワイシャツにアイロンをかけて。

瑞樹は少しずつ離乳食を食べるようになったから、どんな味が好きか考えながら献立を決めるのが楽しい。

あたしはちゃんとお嫁さんもお母さんもできている。
やっと自信を持って家族を支えられていると思えたわ。

ある金曜日、蓮がひどく酔っぱらって帰ってきた。

最近、作家さんとの付き合いで飲み会に連れて行かれることが増えたみたい。

ただでさえ仕事が大変なのに、接待までしないといけないなんて。
でも、好きなことのためだったら気にならないのかな。
あたしは、早く蓮のかわいいお嫁さんになりたかったから、やりたい仕事もなかったし。蓮にとって飲み会が苦じゃないのか分からない。

明美「おかえり。お水持ってこようか?」
蓮「……」

今日はずいぶん飲まされたみたいね……。

いつもだったら、どんなに酔っていても返事をしてくれるのに、今日はスルー。
それに、革靴が雑に脱ぎ捨てられているのも初めて見た。

蓮はあたしの横を通りすぎて、そのままリビングのソファにドサッと倒れる。

明美「も~、大丈夫なの?」

あたしは玄関の靴をそろえながらリビングに向かって声をかけた。
そのとき――


明美「スーツにしわ寄っちゃうから、脱いで……」
蓮「――シイナ、ごめん。シャワー先に浴びてて」

シイナ?
シイナって、誰……。それに、シャワーって?

あたしの頭の中に一番考えたくないことが思い浮かぶ。

まさか!
蓮は家族を裏切るようなことはしないはず。

でも、もしその可能性があるとしたら……。

あたしはとっさにリビングに向かい、蓮のジャケットからスマートフォンを取り出した。
顔認証はあたしのスマホで撮った蓮の写真を使って解除する。

どうしよう。
こんなことしていいのかな。

万が一、蓮に他の人がいたら……。

あたしはそれを受け止めて、この先も蓮のかわいいお嫁さんのままでいられる?
それか、知らないフリをしたまま一緒にいられるの?

色んな思考が巡る。
それとともに、心臓の音がどんどん大きくなって、頭の中で聞こえていた自分の声がかき消されいく。
なんでもいいから、この不安から逃れたい。

シイナ、しいな、椎名……みつけた。

蓮のLIMEをあさった先に、爽やかな笑顔のアイコンにたどり着く。


――――――――――
名前:椎名 駿(編集)
性別:男性
――――――――――


明美「なんだ。仕事関係の人か……」

シャワーを先に浴びるように言ったのは、仕事終わりに銭湯に行くからかな。

あたしが安心してため息をついたとき、蓮のスマホから通知音が鳴り響いた。

明美「!?」

急な通知に驚いたあたしの手が蓮のスマホに触れて、誰かのメッセージの画面が表示された。

連絡の相手は “椎名さん” 。

椎名「先輩、今日もありがとうございました!」
椎名「ホテルもきれいだったし、ジャグジーも気持ちよかったですね♪」
椎名「最近たくさん会えて幸せです❤」
椎名「あ、マンションの下まで送りましたけど、ちゃんと帰れました?」
椎名「明日のデートまでにお酒抜いといてくださいよ(笑)」
椎名「まあ、もし二日酔いだったら、俺んちで看病してあげますけどね😽」

なにこれ。


それに、ホテル? デート?


明日は休日出勤って蓮から聞いていたけど……。
男性同士でこういうやり取りするのって普通なのかな。

あたしはどうしても気になって、ソファで横になっている蓮に問いかける。

明美「ねえ、蓮。椎名さんって誰?」

蓮はぼんやりと目を開いた。

蓮「ん? ああ、会社の後輩だよ」
明美「へえ……。明日は休日出勤で会社に行くんだよね?」
蓮「そうだよ。言ってなかったっけ?」

あたしはとっさに嘘をつく。

明美「ううん、教えてもらってたよ。椎名さんって人と “一緒” なんだよね?」
蓮「そう。最近、椎名とペアで仕事してるから」
明美「そうなんだ」
蓮「明日も早いから、今日はもう寝る」
明美「うん……」

それ以上、怖くて何も聞けなかった。

あたしはぼんやりしたまま寝室に向かい、静かに眠っている瑞樹の寝顔を見る。

嫌な想像しかできなくて、瑞樹の顔を見ながら涙があふれてきた。

握ったままだった自分のスマホのロックを解除して、親友のゆりなに電話をかけた。

プルルルル、と着信音が続く。

――ガチャ

ゆりな「もしもし?」
明美「どうしよう……蓮が不倫しているかもしれない」





作者:明坂凉汰


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