私の好きなバンドは全部なにかの真似事?

 最近、ということでもないのだろうが、世の中みんな、何かをカテゴライズすることが大好きだなと感じる。好きでやっているのではなく、その方が資本主義の世風に都合がいいからそうしているだけなのかもしれないが。音楽性や顔面の系統、性格、本の種類、もはやカテゴライズされていない分野を探す方が難しいのではないだろうか。確かに綺麗に分類されてくれていると探しやすいのだ。

 そして、カテゴライズは自分たち自身の身にも及ぶ。なんならそれがメインなまである。インターネット上や現実の特定の場所に集まる「界隈」が存在したりするらしいが……オイオイ、お前たちはそれでいいのかよ! 捻くれ者の私は昔から逆張りをし続けて生きてきたので、自分と同じものが好きな人、自分と似たような人にはどうにも同族嫌悪を起こしてしまい、仲良くなれない性質なのである。

 そんなアンチ・カテゴライズ党である私は、「似てる」、「っぽい」、「だと思った」の類の言葉が非常に苦手、嫌い、侮辱されているとすら感じる。

 自分の好きなバンドの曲を聴かせた時の「それクリープハイプに似てるね」、先輩に言われた「雰囲気があいみょんっぽいね」、好きなバンドを聞かれて答えた時の「そのバンド聴いてそうだと思った」。あなたの予想の範疇から抜け出すことのできなかった己の、己の好きな物を、そんなもんか、浅いな、とあなたに嘲笑されているとしか受け取れないのだ。

 自分の被害妄想じみた思考と異様に肥大化した自意識のせいで他人からの言葉を曲解してしまっていることも、みんながみんなそんなに他人に対して常に攻撃的で嫌味っぽいわけではないことも頭ではちゃんと理解しているのだけれども、どうも攻撃された気になってしまう癖が治らないのはなぜなのだろうか。

 きっと私はこの自意識過剰を治さない限り一生幸せな気持ちで生きることはできないのだろう。

 将来結婚することがあったとして、子供を持つことがあったとして。結婚式では両親に宛てて「育ててくれてありがとう」といった旨の手紙を読みながら、デカいケーキにナイフを入れながら、参列者の友人知人に礼を述べながら、「ああ、目立ちたがり屋だと思われているんだろう、死にたい」と思うのであろう。

 今年もよろしくお願いします、と印字した年賀状に子供の写真と年齢を添えたものがプリンターから吐き出されてくるのを見つめながら、「一体何人に子供自慢と受け取られて嫌な思いをさせてしまうのだろう、ごめんなさい」と思うのであろう。

 そういう人間のはずだし、そういう人間であり続けたいものだ。こんな自分の性格は好きではないけれども、たとえそれが捻くれた曲解だとしても他人の気持ちを想像するところだけは加点対象であると思っている。

 自分に対するカテゴライズも嫌な気持ちになるものだけれども、それにも増して、自分の好きなものを勝手にカテゴライズされることも嫌な気持ちになる。

 父と車に乗っていて、自分の携帯電話に入っている曲をシャッフルで流していた。自分が好きで時間を作ってライブに足を運んでいたインディーズバンドの曲を流していたのだが、ふと父に声をかけられる。

「お前さ、この曲ってなんかのパクリっぽいの気づいてる?」

「無名な曲ばっか聞くよりもっと有名な曲聞いた方がいいよ」

「この曲のこことか特になんかに似てる気がする」

 なんかに似てるってなんだよ! 何に似てるっていうんだ、言ってみろ! 多分何かしらには似てると思うけどそういうのはオマージュとか影響受けてるとかって言うだろ!  こんな公道のど真ん中で時速50㎞で突進する鉄の塊の操作権を握ったままtotemぽぉるの擁護をするわけにもいかなかったので、私は黙ったまま荒めに右折をすることで抗議の意を表したのだった。

 カテゴライズのいいところは、わかりやすいところである。自分はこういう人間だ、というのを簡潔に他人に伝えることができる。

 音楽はギターロックが好きで、特にグランジ、UKロックが好きです。あ、Nirvanaとか好きです。今の日本のインディーズロックかっこいいっすよ。このバンドとか、ストロークスっぽくてかっこいいんですよね~。

 自分の趣味嗜好を簡潔に他人に伝えることができると、人と仲良くなれる取っ掛かりになりうる上に、自分と趣味嗜好の合う人間と繋がり、人の輪を広げることで、居場所ができるのだ。Twitter上にはタグで繋がろうとする人間ばかり散見される。

 別にそれが悪いことであるとは全く思わない、し、本来それが健康的なインターネットの使い方なのだ。インターネットですら他人と上手くやれない私が皆さまのコミュニケーション能力を妬んでいる、それだけ。

 しかし、簡潔にすることっていいことではない、とまではいかないけれども、つまらなくないか? と個人的には思うのである。

 簡単なものは好きだ。わかりやすいし、簡単なコードだけで作ったシンプルでかっこいい曲は永遠に聴いていたくなる。

 しかし、ですよ。コミュニケーション、人と人の関係に関していえば、簡単であってたまるか、なのです。

 元来人間同士は絶対にわかりあえないもので、それでも私たちは誰かをわかりたい、誰かに自分をわかってほしい、頭のてっぺんからつまさきまで全部わかりあいたいのだ。「仲良くなる」はこれの類語なのではないかと私は思っている。しかしカテゴライズによって簡単に仲良くなって、それで分かり合うこと(完全に達成することのできない目標)への近道を使ってしまうなんて、もったいないしつまらなくはないか。

 そういうわけで、私は自分を何か、誰かと同じにカテゴライズして簡単に分かった気になって欲しくはないし、自分の好きなものを何かと同一視して見下さないでほしいのだ。願わくば、みんなが同じもので繋がらなくてもいい、界隈を作って群れなくてもいいくらいに満たされたらいいと眠気でショートした脳で考えるのだ。 

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