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フィルムで残すということ


ご機嫌いかがですか、みなさん。


外は雨が降っていて、私がこのnoteを書いているのは午前四時。こんな夜更けに雨の音を聞くのはいつぶりだろうか。

さて、どうして私がこんな時間まで起きているのかと言うと(単純に夜行性だからというのもあるが)、フィルムの現像が返ってきてそれをじっくり見ていたからである。

最近の私はコンパクトカメラやハーフカメラばかりしか触っておらず、いわゆる“記録”のような感覚で写真を撮っていた。
私にとってそれはスマホで写真を撮るのと同じ感覚でしかない。

よって、“ちゃんと”撮るということをあまりしてきていなかった。
けれども久々にフィルム一眼レフを首に引っ提げて外へと出かけてきた。


撮りたい!と思った瞬間にしっかりとカメラを構え、ピントや露出を合わせてから丁寧にシャッターを切る。

“ちゃんと”撮る、ということを久々にした。


そしてその現像が返ってきたのだ。



写真を見てまず思ったのが、

愛おしい

ということだった。

そう、フィルム写真は愛おしいのだ。


フィルムで撮ることに意味があると私は思っている。

正直な話をするとフィルムカメラはコスパが悪い趣味で、フィルムは年々高くなるし撮った時にすぐに写真を見れないし不適正な撮り方をするとデータにならないし失敗することなんてよくある話だ。


デジタルカメラやスマートフォンの写真技術が発達しているのだからそっちで撮ればいいじゃないかって思う人も存在する。


それでも私はフィルムで撮ることに意味があると思っている。


1枚1枚フィルムを巻いて、ピントや露出を合わせてシャッターを切るあの瞬間が私はたまらなく好きなのだ。

心動いた瞬間を、
その時浮かんだ感情を、
なんでもない日常を、
フィルムに残すあの瞬間がたまらなく愛おしい。


現像屋さんから写真たちが返ってくる時、思い出まるごと帰ってきた気分になって心が温まる。
私は自分がときめいた瞬間にしかシャッターを切らないと決めているので、写真を見返す度にその時の“ときめき”が再生されるのだ。

1枚にきちんと想いを込めているから、何ひとつとして適当な写真などない。

もちろん撮るのに失敗してしまった写真もあるけど、思い出は再生される。


ある人が、

「現像に出すときのいってらっしゃいの気持ちと、帰ってきた時の愛おしさ
写ってくれた人たちに送る時にその思い出を話し合える楽しさ
これもフィルムのいいところだよね」


とおっしゃっていて、深く頷いた。まさにその通りだった。





1枚に込めた心のときめきをフィルムはしっかりと残してくれるから、私はフィルムカメラで撮り続ける。



デジタル化が進む中で、フィルムカメラを扱う人々は少なくなってきている。
いつかフィルムは無くなるかもしれない。
それでもフィルムが完全になくなるその日までは私はフィルムカメラでシャッターを切り続けるのだろう。




ご精読ありがとうございました。


凜子

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