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感情について: 温かな気持ちとは

この切り口でたくさんの文章が書けるのでは?と予感している、感情についてシリーズ第一弾。

やりたいことや実現したいことは、あくまで途中経過で、最終的にはそれらを通過して自分自身がどのような感情を味わいたいかが重要だと勝手に思っている僕にとって、感情について書くことは自分への棚卸しとなり、状況把握となり、今後の指針づくりに役立つであろう。

今回は温かな気持ちについて書きたい。温かな気持ちは素敵だし、可能な限り多くの温かな気持ちを味わいたいと思っている。おそらく多くの人がそうであろう。

ただ、温かな気持ちは何ぞやと改めて言語化する機会はあまりない。それは一体どのような気持ちなのだろう?

温かな気持ちは、情景から連想されることもあるし、具体的な物事と紐付いていることもある。僕の中で思い浮かぶ情景や物事をあてもなく列挙してみる。

- 冬の寒い日に、暖房の効いた部屋で、家族や友人と食事をしながら他愛もない話をしている。

例えば、小さな頃の年末年始は、実家のテレビでお笑いなどの特番を家族と談笑しながら観ている。

ある程度歳を重ねてからは、友人や恋人と1年の振り返りを、誰かの家で食卓を囲みながら話している。温かな珈琲があれば、尚良い。

または、愛する人と一晩を過ごした後の朝、布団から抜け出せないでいる。こういうときは珈琲を淹れることすら億劫だが、気持ちとしてはとても温かい。

- 強い友人の心が揺れ動き傷つきながらも、立ち直り戦おうとしている。

何かや誰かを強く想い、エネルギーを投じることはそれ自体が1つのチャレンジで有り、そこに踏み込める人はそれだけで強い。ただ、強い人の真骨頂は、傷ついたときだ。彼ら彼女らの回復の過程は、生命力に溢れており、それらの話や時間を共有できるだけで、僕の心は勇気づけられ、むしろ温かな気持ちになる。

全身全霊をかけた起業が華々しく成功した後に、事業も会社も、そして共に戦ってきた仲間さえも失った友人がもがきながらも再起への意気込みを話してくれる。

初めて長く時間を過ごし、愛した女性から激しい言葉と共に別れを告げられ、自分のこれまでの接し方をとことん真っ直ぐに純粋に反省しようとしている友人がいる。

- 自分が少しでも誰かの助けとなる発言や行動をできたと知る。それに関して感謝をされる。

小学生の頃に、クラスのいわゆる落ちこぼれだった友人に勉強を教え、学校生活の相談に乗ってあげていたことが、彼の人生において大きな助けとなったことを10年以上経った後に本人から知らされる。

学生時代から社会人に至るまでの近しい友人の一部が、自分の新しい取り組みや興味のあることに対しての多少の行動力に感化されて、彼ら彼女ら自身も自らの心に正面から向き合い、結果的に前向きな一歩を踏み出したと聞く。

- 仕事で共通の目標を持ち協働した人と成功を分かちあう。その人たちが環境を変えて、別々の道に進む。フェアウェル。

価値のある、人や社会の為になる事業、サービスを作ろうという思いを持ちながらも、実現のためには数多の障壁がある。大企業でもスタートアップでも同じだ。

酸いも甘いも味わいつつ、それらの障壁を乗り越えてサービスのローンチや目標とする売上や会員数などのKGI/KPIを達成できたとき、あらゆる個性や能力や役割を持った仲間たちと成功を分かちあえるとき、達成感と共に温かな気持ちにもなれる。

成功までの過程でさえも、仕事の枠に留まらず、仲間たちのパーソナリティやこれまでの人生や感情の機微に触れることができたときには同様の気持ちになる。

別々の道に進むときも、各自の今後の仕事と人生の充実を願い、意思決定の背景を想いながら、温かな気持ちで見送る。もしくは見送られる。

- サウナ付きの銭湯で、父親が水風呂に入っているのを見て、見様見真似で足を浸けてみる小さな子ども。

父親は通常の風呂に入りながらそんな子どもの様子を温かな眼差しで見守っている。彼にとってもそれは大きな新しいチャレンジなのだ。

結局、体を半分くらい浸からせただけで限界となり、急いで水風呂を出て、笑顔を浮かべながら小走りで父親のもとに駆け寄っていく。

今自分が体験したことを興奮した口調で報告する子ども。それを変わらぬ温かな眼差しを携えて聞く、父親。

これらの情景や物事は、全て僕に温かな気持ちを届けてくれる。そのこと自体が、生活を営み、日々を過ごしていく上での糧となる。なるべく多くの温かな気持ちを感じることは生きる喜びの大きな一部だ。だからこそ、仕事に精を出すし、趣味に勤しむし、他者を知りたい/理解したいと思うし、親友やパートナーを愛したいと思うのだ。

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