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クワロマンテック的な自分を、あえてセクシュアリティとして該当しない



 私は1年前からセクシュアリティへの興味関心を持つようになった。SNSやネット記事、論考や創作物でいろんな情報を摂取してきた。


 いろんな情報を知っていくうちに、性別二元論や異性愛を前提とした話題に疑問を抱くようになったし、親密な仲である状態を〈友情〉か〈恋愛〉なのかで割り振りされることに対してもモヤっとするところがあった。


 私は、人と親しくなると必然的に付きまとう〈恋愛〉のムードが苦手なのかもしれない。私は友愛的なコミュニケーションを担保していたかったのに、なぜか恋愛に発展してしまうというこの流れが苦手だ。しかし、私も過去に親密な人を恋愛関係に持っていこうとした経験があるので、友情から恋愛に切り替えようとする動機は分かる。今は考え方がガラリと変わって反対側に回ってしまったけれど。


 ある日、友人から現代思想に収録されている中村香住さんの論考〈クワロマンティック宣言〉を読んでほしいと勧められた。

 早速読んだ。とても良かった。今まで靄がかかっていた景色が鮮明になったようにハッキリとこの論考で筆者が伝えたいことが分かったような気がした。

 下記はその論考を一部抜粋し自分用のメモとして箇条書き起こしたものになります。

相手との親密な仲を〈恋愛〉に持っていかず、ふたりの間で認識している固有の関係性を大切に保持していくこと。相手と自分の間にしかない固有の文脈を構築していくこと。この関係性は、〈友人〉や〈恋人〉というラベルが付かない自由な契約であるからこそ関係を保持していくためには互いに相手に尽くすことが大事。そして、どちらか片方が関係性自体から恩恵を受けていないと感じるようになると、いつでも関係を解消することができるということ。実際にそうした関係の解消が起きた場合、精神的に大きなショックを受けることになるということ。


 この論考を読んで、私はクワロマンティックなのかもしれないなと感じた。この論考と自分の事情が一致したこと、筆者の思いの強さに感化されたことが理由でしばらくの間クワロマンティックのことを考える日々が1ヶ月くらい続いた。同時に自分がクワロマンティックに該当するのかどうかを自問自答していた。


 しかし時間が経った今、あたらしく考え方が変わった。振り出しに戻ることになるけど、そもそも自分のセクシュアリティを定義しない、型にはまらないようにしようと思い始めてきた。

 おそらくセクシュアリティのなかで該当するものを選ぶとしたらクワロマンティック・デミロマンティック・デミセクシュアルなんだと思う。しかし、型にはまろうとすると閉じ込められた気がしてしまうので前のめりに私はクワロマンティックですと明言することはしないと思う。(前提としてセクシュアリティは流動的だということを理解している)。


 そうは言いつつも、やはりクワロマンティックの考え方が私は好きだ。【自分が他者にいだく好意が恋愛感情か友情か判断できない/しない】って素敵だなと思う。一人の人と真摯に向き合っている感じがする。私は今後も、仲良くなりたい人と関わるときにはクワロマンティックの考え方に基づいて交流していくと思う。


 最後に、「クワロマンティック宣言」の中から響いた一文を引用して締めたいと思う。


「共有された歴史」、つまり相手と自分の間だけで共有されている特別な文脈があるということそのものが、一般的には「恋愛」と想起させるらしい。たとえば、文脈を重ねた上での甘えやあやしのような言動(一般的には甘えやあやしにはならない言動だが、その相手とは今までの言動を通じて培ってきた文脈があるので、その行為をすると二者間にとっては「甘えている」「あやしている」という意味になるような言動)をしていると、外部の他者から「付き合っているの?」というような揶揄をされることもある。しかし、固有の文脈を積み重ねた上でのみ成り立つ甘えや好意の示し方は、相手と自分との関係性がそこに凝縮されていることを感じられて、たとえそれが「恋愛」ではなくとも、たいへん心地よく、尊いものである。

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「重要な他者」との間で何よりも一番大事な実践は、まずその人との関係性を一から積み上げ、相手と自分の間にしかない固有の文脈を構築していくことである。それは、相手と何度も会ったり話しているうちに、自然と積み上げられていく。とくに発話行為の積み重ねによって、相手と自分の間でのみ通じる共通言語のようなものが生まれていく。それは、世界の分析枠組みを新しく一つ獲得することでもあると私は感じている。

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 恋愛でも友愛でもない、あなただけに対する好意を信じてみたい。



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