4.車窓と退屈と東京と。
我々は妥協を重ねながら生きている。何かやりたいことをあきらめたり、何かやるべきことから眼を背けているだけではない。どういうことなのか。なぜこうなってしまうのか。何か違う、いや、そうじゃないんだ……。そのように感じられる何ごとかについて、「まぁ、いいか」と自分に言い聞かせながら、あるいはむしろ、自分にそう言い聞かせるよう心がけながら生きている。この本は、そうした妥協に抗いながら書かれた。自分が感じてきた、曖昧な、ボンヤリとした何かに姿形を与えるには、それが必要だった(國分功一郎 『暇と退屈の倫理学』増補新版のためのまえがき)。
少し前、こんな書き出しから始まる本を読んだ。僕の通っている大学の先生が書いた、『暇と退屈の倫理学』というタイトルの本だ。大学生協でなんとなくこの本が目に止まって、前書きを読んで、すぐ読むことを決めた。哲学の教授のような人でも、そういう漠然とした不安を抱えていることに、ある種の共感と安堵を感じると同時に、どこか悲哀を帯びた筆致に惹かれたからかもしれない。
この本の構成を軽く説明してみよう。前半部では、我々が日常の中で感じている「暇と退屈」について、歴史学や人文学、哲学、倫理学などの観点から考察がなされる。その後、マルティン・ハイデッガーという高名な哲学者の退屈論(僕を含めた多くの読者にとって、退屈という事象が学問的考察の的になってきたこと自体がそもそも新鮮だろう)を批判的に考察しながら、著者自身の結論が紐解かれていく。文体は非常に簡明で、人文学の論理展開とは如何なるものかを実践を通して学ぶことのできる良書だった。
そして話題は一旦転換するが、これまた最近読んだ文章の中で、僕はある短歌に出会った。前置きが長くなったが、この文章は、先にあげた本で学んだことを利用しつつ、その短歌の個人的読解を記録するものだ。
いたる所で同じ映画をやっているその東京でもういちど会う(青松輝)
これがその短歌だ。これを読んだ時、素朴に(やられた...!)って思った。声に出てたかもしれない。こういう表現の仕方があるのかって驚いた。なぜならこの短歌が、僕の目に映る東京という街を、これ以上ないくらい上手に、かつ非常に詩的に描写していたから。
ここからこの短歌の個人的な読解を書いていくが、当然のことながら僕は短歌に対する知識は並以下であるし、作者に確認を取ったわけでもないので、非常に私的かつ素朴な読解に過ぎないことをまずは確認しておく。
まず最初の観点は、端的に言って、東京に限らず全国どこでも大抵同じ映画をやっている、ということだ。ではなぜ、わざわざ「いたる所で同じ映画をやっている」なんてことを言うのか?そこに重要なポイントがあると思う。
東京で一人暮らしを始めてそろそろ半年が経つが、地元と最も違うところに、ほとんどの人間の生活が電車に依存していることが挙げられる。電車に乗らない日はないと言ってよく、人々は電車に揺られて都内を縦横無尽に移動する。半年前の僕の予感を裏切って、車窓からの景色は均質で、ほとんど変化がなく、退屈でさえある。
ここで『暇と退屈の倫理学』を援用しよう。先述したマルティン・ハイデッガーは、退屈を三つの形式に分類する。第一の形式→第二の形式→第三の形式と進むにつれ、退屈はその"深さ"を増していく。つまり三つの形式は対等な関係ではない、ということだ。(短歌の読解においては第三形式のみ紹介すればいいのだろうが、なんとなくハイデッガーに悪い気がするので、長くなるが3つとも紹介する。)
まず第一の形式は、「何かによって退屈させられること」である。まずはハイデッガー自身が述べる具体例を引用しよう。
たとえばわれわれはある片田舎の小さなローカル線の、ある無趣味な駅舎で腰掛けている。次の列車は四時間たったら来る。この地域は別に魅力はない。なるほどリュックサックに本を一冊もってはいる──では、本を読もうか? いやその気にはならない。それとも何か問いか問題を考え抜くことにするか? そういう感じでもない。時刻表を読んだり、この駅から別の地域までの距離の一覧表を詳しく見たりするが、それらの地域のことは他には何も分からない。時計を見る──やっと十五分過ぎたばかりだ。では街道へ出よう。われわれはただ何かをするために、行ったり戻ったりする。だが何の役にもたたない。そこで今度は街道に沿って植わっている並木の数を数える。再び時計を見る──前に時計を見てからちょうど五分たった。行ったり戻ったりするのにも飽きたので、石に腰をおろして地面にいろんな絵を描く。そうしながら、ふと気がつくと、また時計を見てしまっている──やっと半時間たった──といった具合に進んでいく(マルティン・ハイデッガー『形而上学の根本諸概念一世界一有限性一孤
独』ハイデッガー全集第29/30巻、川原栄
峰、セヴェリン・ミュラー訳、創文社、一
九九八年、百五十五頁)。
この例で直感的に第一形式がいかなるものか理解できる人もいるかもしれない。そうでない人は、突き放すようで悪いが本を読んでほしい。説明しようと思うとまた別の概念を紹介せねばならないので、あまり気が進まない。(個人的には、ハイデッガーのような人でも、読書や哲学的思索に気乗りしないことがあるんだなぁ、と少し安心した。)
次に、第二の形式は「何かに際して退屈すること」である。これもハイデッガー自身の具体例を引用するにとどめる。
我々は夕方どこかへ招待されている。だからといって、行かねばならないということはない。しかし我々は一日中緊張していたし、それに夕方には時間があいている。そういうわけだから行くことにしよう。そこでは慣例通りの夕食が出る。食卓を囲んで慣例通りの会話が交わされる。すべてとても美味しいばかりでなく、趣味もなかなかいい。食事が済むと、よくある感じで楽しく一緒に腰掛け、多分、音楽を聞き、談笑する。面白く、愉快である。そろそろ帰る時間だ。婦人たちは、ほんとに楽しかった、とってもすばらしかったと確かめるように何度も言う。それも、別れの挨拶のときだけでなく、下へ降りて外へ出て、もう既に自分たちだけになってしまっているのにそうしている。その通りだ。とてもすばらしかった。今晩の招待において退屈であったようなものは端的に何も見つからない。会話も、人々も、場所も、退屈ではなかった。だから全く満足して帰宅したのだ。帰宅すると、夕方中断しておいた仕事にちょっと目を通し、明日の仕事についておおよその見当をつけ、目安を立てる──するとそのとき気がつくのだ。私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだ、と(同前、百八十二-百八十三頁)。
確かにこういう事態は、日常において頻繁に、とまでは言わないまでも、たまにある。この形式の退屈が厄介なのは、(この例で言えば)夕食は楽しかったはずなのに、なぜか、退屈であったと言う気分が曖昧に、されど厳然と存在していることだろう。例によって、この形式の退屈についての詳しい説明は、ぜひ『暇と退屈の倫理学』を参照してほしい。
そしていよいよ第三の形式だ。さて、退屈の第三形式とはいかなるものなのか。
「なんとなく退屈だ」
これがハイデッガーのいう退屈の第三の形式である。これを知ってどう思うだろうか。最初は、なんとなく拍子抜けしたような気分になるかもしれない。そして僕の場合は、次の瞬間に、今までの人生における様々な体験が思い起こされて、恐ろしさと尊敬の念が生じた。ハイデッガーという哲学者の、日常への繊細で精緻な眼差しは慧眼と形容するしかない。
先の二つの形式とは違って、この形式の説明では具体例はあげられない。なぜなら第三形式の退屈は、最も"深く"、ゆえに特定のコンテクストに連関せずに突発的に立ち現れるものだからだ。
この第三の退屈において、人は、自身の奥底から響いてくる「なんとなく退屈だ」という声から逃れる術を持たない。私たち自身も、周囲のすべても、皆等しく「どうでもよく」なっている。それは同時に、全てが何一つ言うことを聞いてくれない状況に置かれていることでもある。ハイデッガーによれば、それはあたかも、何もない空間に置かれているようなものだ。それは、外部から与えられる全ての可能性を否定されていることに等しい。あらゆる可能性が拒絶されると、人はどうなるか。そこで人は、自分自身に目を向けることを余儀なくされる。本来自分が得られたはずのもの、得なければならなかったはずのものを突きつけられる。これはどういうことかと言うと、全ての可能性から拒絶される=遠くに置かれることで、逆にその可能性が見える(見えてしまう?)ということだ。
短歌の読解に戻ろう。東京において私たちは、電車に揺られながら縦横無尽に移動する中で、様々な車窓からの景色を視界に入れることになる。日本一の都市とは言っても、結局はどこへいっても似た風景、同じような広告塔、大勢の知らない人々がただ行き交う姿をただ繰り返し眺める。そして意識するにせよ、しないにせよ、同時にどこへ行っても違う景色を見出せない自分を見つめることになる。変わり映えのしない景色が、変わり映えのしない、何一つとして成し遂げられてない自分自身に反射する。それでも電車は止まることはないし、進路が変わることもない。ただ可能性の拒絶を突きつけられ、退屈な日常は終わることを知らない。
すごく悲観的な気分になってしまうが、ハイデッガーはこの退屈を打破する術も記している。これも拍子抜けするような素朴な答えなのだが、その術とは「決断すること」であるという。遠くに見える可能性を掴もうと決断する、そのような姿勢によって退屈は打破されるというのだ。まあ、言おうとしていることはわからないでもない。全ての可能性が目の前にあるのだから、さっさと決断してその可能性のどれかひとつでも掴み取れ、ということだ。ここから、『暇と退屈の倫理学』ではこの答えを批判していくのだが、個人的にはハイデッガーの解答も嫌いではない。竹を割ったような元気が出る答えだ。
いたる所で同じ映画をやっているその東京でもういちど会う(青松輝)
退屈な東京で、どこへ行っても同じ景色が溢れる東京で、どこへ行っても何ひとつ変われない自分だけど、それでもあなたに会う、会いたいと思う。僕はここに、ハイデッガーの言う「決断」を見出した。ここで会う人というのは、最初は恋人とか、大切な人を想定していたけど、同時に自分自身であるようにも思う。新しい自分、可能性の一端を掴んだ自分。そんな"あなた"に出会おうとする試みは容易に遂げられるものではないし、僕たちは日々、そのチャレンジに失敗し続けているのかもしれない。でもその苦悩の中に、人間存在の本源的な喜びがあると思う。人間として生きていく上で、退屈から逃れることができない私たちは、同時にその試みからも逃れることはできない。なぜならそれは決して完了することのない試みなのだから。そして、その苦しみに塗れた試みのなかにこそ、人生の喜びとでも形容すべきものがある。
こうしている間にも、電車はだんだんと目的地へと近づいていく。遠くに見える無数のビル群が、昨日よりも心なしか美しく映るのは、気のせいだろうか。そろそろ夏が終わって、季節は秋へと変わる頃だ。今日は果たして、誰に出会えるのだろう?
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