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いつのまにか、大切に「なってしまう」

週3ペースで着ていたお気に入りのワンピースがダメになってしまった。しかも、ハイターとワイドハイターを見間違うという絵に描いたような凡ミスによって。お気に入りといっても大枚はたいて買ったわけでもなく、もう5年ちかく着ているのでもとはとったはずだ。にもかかわらず、漂白剤によってタトゥーのような模様が入ってしまったワンピースを目の当たりにして、あまりのショックに洗面台でしばらく打ちひしがれてしまった。

買ったときにはそんなつもりはなかったのに、気づけば長く使っているものが身の回りには意外とたくさんある。秋物の薄手のコートはもう10年使っているし、ブラウスやスカートなどベーシックなアイテムは5年以上同じものを着続けている。さらに部屋着や寝具はくたくたになったものが好きなので、家族や友人から「まだそれ着てたの!」と驚かれることがよくある(帰省や旅行のときも寝巻きは持参する派)。あまり意識したことはなかったけれど、どうやら私は物持ちのいい部類に入るらしい。

10年以上使うようなアイテムは、何年もかけてベストなものを探して納得の上で買って大切に使うイメージがある。けれど実際はいつどこで買ったのかも思い出せず、もはや自分で買ったのか誰かにもらったのかすらあやふやなものほど手元に残ったりする。こだわりを持って丹念に調べて比較したものは、そのときは気に入っていても時間が経つに連れてその当時の自分のこだわりが鼻につくことがある。無意識に選んだものが、結果的に自分にとっての心地よさの正解に近いのかもしれない。

日常の登場頻度が高いモノは、それ自体の利便性というよりも「慣れ」によって唯一無二になる。使い勝手に慣れているから、別のものに買い換えたりしてちょっとでもデザインや機能が違うとストレスになる。暮らしのなかで、自分の側がモノに合わせて変化してきていたのだなあ、とそのときになって気づく。この数年を別のモノと過ごしていたならば、私もまた別の型になっていたのかもしれない。モノとの出会いも人と同じで、一期一会であり偶然やタイミングがものをいう。
そしてまったく同じモノとは二度と出会えないし、失ってから「慣れ」が生む心地よさのありがたみに気づく。多少雑に扱ってもざぶざぶ洗って水に流してくれる安心感にあぐらをかいているとある日急に失うことになるところも同じである。

大切なものは、「よし、今から大切にするぞ!」と急に意気込んで生まれるわけではなくて、日々を重ねるなかでいつのまにか大切に「なってしまう」のだと思う。少しずつ自分の一部にとりこまれていって、それがあまりに自然な変化なので、失くしてみないと「あれは私の一部だったのか」と気付けない。むしろ日常の中でわざわざ意識しないほど自分自身に溶け込んでしまっていることが幸せでもあるのだと思う。だからそこにあるうちは大切さに気付けないし、いつも失くしてから大切だったことに気づく。

あらゆるものに感謝することも大切だけれども、あって当たり前だと何の疑いもなく信じていられる時間の幸福もたしかにある。子供の頃は両親がいつかいなくなるなんて想像もせずに安心しきって後部座席ですやすや寝ていたのだし、恋人も友人も離れる日のことなど考えもせずに付き合っているからこそ振り返ったときに「あの頃の当たり前の時間」が宝物のように見える。大切なものは決心ではなくて結果だから、いつのまにか大切に「なってしまう」ものなのだと思う。

ワンピースの修復はおそらく難しいだろうけど、染め直しの相談も含めていろいろ手を尽くしてみて、どうしてもダメならお墓をつくって庭に埋めてあげようかな、ふと思った。私にとってそれはもはや命が宿っている何かであって、ゴミ袋に丸めてポイと捨てるのではなく何かしっかりと「弔い」のようなものが必要なんじゃないか、と思ったのだ。リメイクとかダウンサイクルとか今流行りのSDGs的な話ではなくて、むしろそういう無理な延命をすることなくワンピースとしての寿命をまっとうして、成仏してもらいたい。付喪神の考え方はきっとこんな風に、自分の一部になってしまったモノへの感情移入からはじまったんだろうと思う。

モノを大切にする教育も声高にさけばれる昨今だけれども、人にはもともとそういう感受性みたいなものが備わっていて、長く使ったものを手放すときの一抹の寂しさや思い出が蘇る感覚は誰しもが持ち合わせているものなんじゃないだろうか。人であれモノであれ、ただ表面上だけ丁寧に取り扱うのではなくて自分の一部になるほど当たり前になってしまった存在が、私たちの人生を寂しく豊かなものにしてくれる。

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