知性は批判にでる
私が大切にしている言葉のひとつに、
「プライドとは己を律する心であり、教養とは人を傷つけることなく接する術である」
というものがあります。
プライドも教養も、ときに「鼻につくもの」として忌避されることもありますが、私は2つの本質は自らの行動を規定することにあることを前提として、正しく使うことが必要だと思っています。
そして、その人の本当の知性というものは、批判する際の姿勢にどれだけこの2つに対して美意識をもっているかによって表れるのではないかと思うのです。
そう感じたのは、批評家として今なおその功績が語り継がれる小林秀雄の思想に触れたことがきっかけです。
先日、「生活のたのしみ展」で立ち寄った「河野書店」で、河野さんから「学生との対話集なので、小林秀雄の入門書としておすすめですよ」と推薦いただき手に取った「学生との対話」。
小林秀雄の著書はずっと読みたいと思いつつ手をだせずにいたのですが、彼の批評家としての考え方や歴史への態度が柔らかい言葉で語られており、「知的な態度とはこのことだ」という学びを得られる一冊でした。
特に印象的だったのは、批評家として名高い小林秀雄が「批評において、褒めることこそが創作につながる」と話す箇所。
「途中から悪口はつまらなくなって、書かなくなった。悪口というものは、決して創作につながらない。人を褒めることは、必ず創作につながります。」
「批判」「批評」というとダメなところを上から目線で指摘するようなイメージがありますが、本来はそのもののよさを見出し、さらに伸ばすことこそが本当の批評家の仕事なのではないでしょうか。
また、批評の仕方によってその人自身が「行動」をしてきた人かも推し量ることができるように思います。
例えば、誰かが新しいことをはじめたときに「あれが足りない」「もっとこうすべき」と言うことは簡単です。
外野からは予算や人的リソース、中長期的な戦略といった裏側の制約を一切忖度せず、理想論を語ればいいだけだからです。
しかし、実際に自分が新しいものをはじめたり、プロジェクトを動かす経験をした人は、たとえ業界が違ってもその「新しいこと」をはじめること自体がどれだけ大変だったかをよく理解しています。
だからこそ、行動して傷ついて立ち上がってきた人たちは、優しく、強い。
以前「言葉を発した、先にあるもの。」という記事にも書きましたが、私たちが何かを評価するとき、私たち自身もまた評価されています。
誰でも一瞬にして自分の意見を表明できる時代だからこそ、知性と思いやりがある人にはますます人が集まり、罵詈雑言ばかり撒き散らしている人には誰も近づかない。そんな構図がさらに顕著になってきているように思います。
何かを発信するとき、そこには常に「受け手」がいます。
その発信が「自分のため」になってしまっていないか、受け手に「これを受け取ってよかった」と思ってもらえるものを発信しているか。
「送信」のボタンを押す前に、たった1秒だけ振り返ってみるだけで、発信の質が大きく変わるように思います。
否定の言葉は、永遠に終わらない否定の連鎖を生んでしまいます。
だからこそ私は、自分の美意識として知的な態度を大切にしたい。そう考えています。
知らないことは伝えていけばいいし、誰のことも攻撃しない戦い方だってあるはず。
私たちが世界をアップデートするためにとるべき態度は、「どちらが正しいか」を争うことではなく「他者への想像力という教養」をつけることなのではないでしょうか。
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(Photo by tomoko morishige)
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