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伝統から革新を生むために

生き残るためには、変化し続けなければならない。この原理からはどんな事業体も逃れられない。
一時代を築いた大企業も、何百年も続く伝統産業も、絶えず変わりゆく時代に適応するための変化を求められている。

しかし規模が大きければ大きいほど、そして歴史が長ければ長いほど、変化のスピードは鈍る。

ステークホルダーが増え、ビジネスシステムは複雑になり、「安定」や「継続」を求める人の割合が高まっていくからだ。

イノベーションの多くは辺境で起きる。
これまで見向きもされていなかったような場所に集まった人々が、新しい価値を作る。
このサイクルによって私たちの世界は常に進化し続けてきた。

もし大企業が変化を求めるなら、既存の仕組みからは完全に切り離して独立させ、人為的に「辺境」を作ることでしか達成し得ないのではないか、と私は常々考えてきた。

たとえば三越がデパートメント宣言を通して呉服店から百貨店へと変貌を遂げた裏には、三井家からの離脱がある。
当時銀行業を立ち上げる条件として三井家が国から言い渡されたのが、不採算事業である呉服事業の切り離しだった。

改革の中心となった日比翁助も高橋義雄も三井銀行から送られてきた人材だったとはいえ、本家から一定の距離を保って自由に改革を進められたことが、伝統的母体を持つ組織の変革に必要不可欠だったのではないかと私はみている。

何か新しい変化を起こすには、一度本流から切り離して傍流を作り、自由な環境を作らなければならない。
これこそが伝統から革新を生むための方法なのだと考えてきた。

しかし、実は大きな組織を維持したままで変化させる方法もあるのかもしれないと考えるようにもなった。

そのきっかけとなったのは、プロ野球界で議論を巻き起こした、原監督の「野手登板」采配である。

メジャーでは時折目にする野手の登板だが、日本では現代的な分業制がはじまってから実施されたケースはなく、解説者や現役メジャーリーガーまで巻き込んでの議論となった。

プロ野球は高校野球とは異なり、投手と野手は分業制である。投手は投球、野手は守備と打撃に専念する。
高校時代には4番ピッチャーを務めていた選手もプロに入るタイミングでどちらかを選び、投手として、野手としての専門性を高めていく。

つまり野手が投球練習をする機会など皆無であり、たとえ高校時代に投手経験があってもプロの投手との能力差は大きい。
(※セ・リーグのピッチャーはDH制がなく打席に立つ必要があるため打撃練習も行う)

ではなぜメジャーでは時に野手が登板する機会があるのかというと、大量失点で負けている試合で控え投手の体を消耗させないためである。

現代野球では投手の中でもさらに分業制が進み、先発投手が完投するケースの方が珍しくなった。必然的に試合後半で投げる選手(リリーフ)の登板回数が増え、疲労が蓄積されていく。
リリーフのリソースは貴重であり、いかに無駄な試合で彼らを投げさせることなく効率的に勝つかが采配のポイントでもある。

通常は「敗戦処理」と呼ばれる選手が登板するが、メジャーの場合は敗戦処理投手として野手が抜擢されることがある。野手は普段の試合では投球を行わないため、肩や肘への蓄積疲労が少ない。投手を温存するための合理的な作戦である。

日本球界でこれがタブー視されてきたのは、ひとえに「投球専門でない選手が登板することは相手バッターに失礼」という感覚が根強かったためだと思われる。実際に今回の采配への批判は「相手に失礼」という意見が大半だった。

ここで考えたいのは、野手登板の是非そのものよりも、「巨人の試合でこの采配が行われた」ということである。

プロ野球は規模の大きさも歴史の長さも日本のスポーツ界においてトップクラスであり、何かを変えるのが難しい業界だ。
コリジョンルールもリクエスト制度も、試合に関わる新ルールの導入時には常に様々な立場から議論が巻き起こってきた。

その中でも巨人は伝統を重んじる球団であり、OBの発言力も強い。今回も「巨人がそれをやるのはいかがなものか」と巨人という球団にフォーカスした批判も目立った。

これまで野手の登板が行われなかったのも、各球団の首脳陣がこうした空気を理解して忖度してきたからである。翌日以降の試合日程を考えれば、野手を登板させるのが合理的な選択となるような場面もあったはずだ。
それでも実行されなかったのは「それをやってはいけない」という暗黙のルールが根底にある。

しかし今年は開幕が後ろ倒しになった影響で試合日程は過密になり、投手の負担も増えている。さらに「伝統の一戦」と呼ばれる阪神との試合において、10点差以上をつけられたままただ負けてしまってはファンの気持ちも収まらないだろう。

「野手登板」を実現させる上でこの上ない好条件が揃ったことになる。

首脳陣の中でどのような話し合いが行われたのかは知る由もないが、最終的にGOサインを出せたのは、トップが原監督だったことが大きいように私は思う。

選手としての実績も監督としての実績も申し分ない「レジェンド」であり、今シーズンも首位を独走しているからこそ批判を最小限に留めながら野手登板の前例を作ることができた。
彼自身も、球界での自分の立場やどう見られているかを理解しているからこそできた決断だったのではないかと思う。

登板した増田は結果的に無失点で切り抜けたのでファンからは批判よりも称賛の声が多かったが、もしここでさらに大量失点していたらより大きな議論につながり、選手にも影響を与えていた可能性がある。
そのリスクを背負ってでも登板させる覚悟は、本人の気質もさることながら押しも押されぬ名監督としての地位があればこそのものだったのではないかと思う。

伝統的な組織が表立って新しいことをやれば、必ず反対する人がでる。しかもその「伝統」を深く愛しているからこそ、根強いファンや組織内の人たちが反対に回るケースが多い。
そんな中で新しい前例を作るには、誰も文句をいえないほどの立場を確立した人が自らの振る舞いによって変えていくしかないのだ。

以前、伝統産業の方からこんなエピソードを聞いたことがある。
異なる流派の代表が集まって新しい施策への議論を重ねていたものの、保守的な考え方が優勢でったためになかなかまとめられずにいた。
そのときに人間国宝級の重鎮が「変えるなら今しかないだろう」と鶴の一声を放ったことで、議論が驚くほどスムーズに進んだという。

人は変化を怖れる生き物だ。
これまで積み上げてきたものに誇りがあればあるほど、「変えない」ための努力をしてしまう。
新しい考えを取り入れるよりも、既存の仕組みの中でいかにうまくやるかに囚われてしまう。

その慣習を打破し、議論を巻き起こしながらも新しい仕組みを取り入れようとする姿勢は、その業界で崇められ一目置かれる立場の人に課せられた義務なのかもしれない。

規模を維持したままでも、大きな組織が変化の波を起こすことはできる。
ただしそのためには絶対的な地位にいるトップランナーが自己保身の殻を破り、自らの手で前例を作る覚悟が必要なのではないかと思うのだ。

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