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「わかってもらう」よりも、

エンドクレジットがスクリーンいっぱいに映され、パッと照明がつく。客席にざわめきが戻り、伸びをしたり小声で感想を交わしたりしながら、いそいそと帰り支度を整える人々が劇場内の空気を揺らす。

おそらく、その場で泣いていたのは私だけだった。エンドロールが流れる間も、声も出さずにひたすら下まぶたから滴り落ちる雫だけを感じていた。

「この映画、好きだと思うよ」とある日友人に勧められた。調べてみると、私の好きな監督がメガホンをとった作品だった。あらすじや出演者のチェックもそこそこに、監督の名前だけで「指名買い」をして早々に観にいった。

村上春樹の短編集「女のいない女たち」に収録されているうちの一編を原作に、チェーホフやサミュエル・ベケットの戯曲を織り交ぜたほぼオリジナルの作品だ。

濱口監督の作品に魅せられたのは、「寝ても覚めても」がきっかけだった。原作小説の設定を生かしながらも、チェーホフをはじめとするロシア文学と融合させることでさらに深い物語へと仕立てる手腕に感動を覚えた。いい意味で、原作とは「別物」を撮る人だ、と思った。

「ドライブ・マイ・カー」では、前作以上にその力がいかんなく発揮されていた。村上春樹の原作小説にもチェーホフの「ワーニャ伯父さん」への言及は出てくるものの、話の筋にはほとんど影響しない程度のものだった。

しかし映画版では主人公が演出を務める作品として物語の鍵を握るほどの存在感を放つ。物語の流れにあわせて差し込まれる戯曲のセリフたちは、まるでこの映画のために作られたのかと感じるほどにぴったりとそのシーンに収まっていた。

三時間弱の大作だったが、一瞬たりとも飽きることなく食い入るようにして、全身全霊で映像を浴びた。上映が終わったあと、家に帰る時間すら惜しく映画館のエントランスで村上春樹の原作とチェーホフのワーニャ伯父さん、ベケットのゴドーを待ちながらの三作を一気に購入して読んだ。

原作を読んで驚いたのは、映画版では表題の「ドライブ・マイ・カー」だけでなく、「女のいない男たち」に収録されている作品のエッセンスも少しずつ取り入れられていたことだ。つまり表題作と二つの戯曲のみならず、全部で5、6作品を融合させて一本の映画に仕上げている。それも、出典がはっきりとわかるほどの輪郭を持たせながら、違和感なく融合させている。

原作の映像化は、ファンから必ず賛否両論を受けることになる。むしろ「否」の方が多い場合すらある。特に村上春樹ほどの熱烈なファンを抱える作家の小説であればなおさらだ。原作のパワーが強すぎて、アレンジを加える必要性もなければ下手にいじると繊細なバランスが崩れてしまいかねない。だから大半の人は複数の作品を混ぜたりしないし、なるべく原作に忠実に撮ろうとする。

濱口監督のすごさは、原作の再現としての映画ではなく、その作品を再解釈し別ものとして作り上げることで、原作にもさらに深みを与えるところにある。

寝ても覚めても」も「ドライブ・マイ・カー」も先に映画を見てあとから原作に触れたのだが、どちらも映画によって与えられた思考の補助線が読書体験を豊かなものにしてくれた。きっと自分で読んだだけではさらりと受け流していたようなディティールも、映像で強調されチェーホフのセリフと融け合うことで、物語に深みを与えていたことに気付かされる。映画全体に漂う違和感の積み重ねが、何度も何度も作品を思い出しては反芻するフックになる。

もしも私が村上春樹だったなら、この映画の存在こそが作家冥利に尽きる瞬間だろう、と思う。
作品が褒められるよりも、共感の手紙をもらうよりも、自分の作品をよりよいものに仕上げてもらうことこそが、何かを創造する人にとっての最高の喜びではないだろうか。

人間同士は、わかりあえない生き物だ。だから私は初めから「わかってもらう」ことに期待していないし、誰かの創作物に対してわかったようなことも言いたくない。私たちはどこまでいっても、永遠にわかりあえない。その現実からはじめたい。

けれども、自分の作品から影響を受けた人が作ったものに出会った瞬間に「通じ合えた」と感じることがある。その瞬間だけが真実だと、私は思う。
私たちは永遠にわかりあえない孤独な生き物だけれども、ときに会話や共感以上に、「いい作品を作ること」が孤独を癒し、人生の喜びを与えてくれることがある。私たちが創作に打ち込むのは、長い長い暗闇の中で一瞬だけ差し込む光のような儚い温もりを求めるがゆえなのかもしれない。

それは、三島由紀夫が「未来を信じない」と語ったことと通じるものがあるように思う。

つまり、未来を信じないということはだね、つまり自分が終りだということだろう。自分が終りだということは、あとに続くものを信ずるということなんだ。あとに続くものを信ずるということと、未来を信ずるということは、完全に反対の思想なんだ。
未来を信ずるという思想は、自分をプロセスと規定するものだよ。(中略)あとに続くものを信ずるということは、絶対に未来に対して自分をプロセスと規定しないことだよ。ぼくは、一字一句は、終りだから毎日書く。

「文化防衛論」(三島由紀夫)

創作を通したコミュニケーションは尊い営みだが、それはあくまで相手と向き合ってやりとりをする「プロセス」でしかない。しかし創作は、自分と向き合い自分自身にしか終わらせることのできない営みだ。
あとに続くものを信じるからこそ、新しいものを創ることができる。自分の営みを、一度完結させることができる。
そして自分もまた誰かが完成させたものを受け取って、「結果として」創作の営みはあとに続いていく。

自分が心から感銘を受け、大切に想うものに出会ったとき、一番の恩返しはきっと「よりよいものを作ること」なのだと思う。作り手の孤独を埋めるのは、よい作品との出会い以外にはないのではないか、と。

いい映画を見る。いい本を読む。
よい作品が持つパワーに負けることなくよい作品によって自分自身の輪郭を浮き上がらせ、また自分の仕事に励む。

自分の仕事が、紡いだ言葉が、いつか誰かによって再解釈され、創作の源泉となり、世界を豊かにする粒子のひとつとなる。
よい作品とは、よい仕事とは、それぞれが責任を負う覚悟をもって個々人の中で完結させることによって生まれるものなのだろう。


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