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「好きなことをやる」という劇薬

人の働き方が多様になり、どんどん自由になっている今、「好きなことをやって生きる」ということが現実のものになってきました。

実際、私もコツコツ自分の好きなこと、興味のあることについて発信していたら共感してくれる人が増え、今は会社でもプライベートでも好きなことをたくさんやっています。

でも、一方で「好きなことをやって生きる」という言葉を額面通りに受け止めすぎると危ないのではないか、ということも同時に思っています。

ちょうど最近読んでいた「葉隠」の中で、こんな一節がありました。

『人間一生誠に纔(わづか)の事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚なることなり』

人の一生はほんのわずかの間のことだからこそ、自分の好きなことをして生きるべきである、という今にも通じる主張は、現代と同じ普遍的な真理なのだと思います。

しかし、その後には次の言葉が続きます。

『ことの事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆などへ終(つひ)に語らぬ奥の手なり』

ただし、この言葉は取扱注意であるということ。そして特にまだ分別のつかない若者に安易に伝えてはいけないということ。

これもまた、時代を超えても変わらない真理なのだと思います。

そもそも、本来『好きなこと』『やりたいこと』の中にも粒度があります。

例えば、フリーランスとして場所や時間にとらわれずに生きるのはやりたいことだったとしても、そこには必ず自分で請求書を作ったり営業をしたりといった『やりたくないこと』がセットになっています。

同じように、会社で何か大きなプロジェクトを回すのは『やりたいこと』かもしれませんが、それを本当に『やる』フェーズに持っていくには、ありとあらゆる『やりたくないこと』をクリアしなければなりません。

大企業の体質はいろんなところで揶揄されますが、新卒できっちりやりたくないことにも向き合い、社会人として最低限やらなければならないことを叩き込まれるのはよく考えてみたらとてもいい教育ともいえます。

なぜなら、やりたいことが大きくなればなるほど協力者が必要になり、協力者に信頼してもらうために必要なのは、やりたいことに付随するあれこれを突破した経験だからです。

もちろん、一部の人ははじめから起業したりスタートアップでゴリゴリ仕事を回す中でこうした壁にぶつかり、己の力で乗り越えていくものですが、どの道を辿っても遅かれ早かれ『やりたくないこと』に必ずぶつかります。

そこで投げ出してしまわず、グッと耐えて壁を突破できるかどうか。

人が人を信頼するということは、そうした投げ出さない責任感のことなのだと思います。

一方で、好きな事だからこそ続けられたり頑張れたりするという面もあると思います。

ただ、『好きなことをやって生きる』というのは楽して生きるユートピアではなく、そこに付随するたくさんの面倒なこともまるっと抱え込まなければならないということ。

そのことを理解せずに、好きなことをやって生きるという言葉を隠れ蓑にして苦労を迂回しようとばかりしていると、いざ30代、40代になったときにただ夢ばかり見て何もできない人から脱却できなくなってしまいます。

そういう意味で『好きなことをやって生きる』という言葉は劇薬であり、その本意を丁寧に伝えていかねばと思う日々です。

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