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それでも、朝は来る

「なかったことにしないで」──。

ぼんやりと浮き上がる文字列を見た瞬間、これは私の言葉だと思った。

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映画「朝が来る」を見た。特別養子縁組や未成年の妊娠が題材になっているためこのテーマに関連した感想が多いが、私は「どうしようもない悲しみを、もう一度抱え込めるようになるまで」の話として鑑賞した。

なるべくなら、悲しいことや辛いことは避けて通りたい。ほとんどの人はそう考えているはずだ。だから自分だけでなく他人に対しても、なるべく悲しみを思い出させないように、「ふつう」の暮らしに戻れるようにと気を配る。

この優しさが、時に残酷なほどの孤独感を生む。

自分はまだ悲しみの渦の中に取り残されているのに、まわりは「なかったこと」にしてどんどん前に進んでいってしまう。「あったこと」として覚えていられるのは自分だけなのならば、何がなんでもここで守り続けていかなければならないと。

人生の悲しみを思うとき、私はいつも永田和弘のこの歌を思い返す。

わたくしは 死んではいけない わたくしが 死ぬときあなたが ほんたうに死ぬ

たとえ悲しみや辛い記憶につながっていたとしても、その感情すらも「存在の証明」であり、思い出すたびに感じる痛みが自分の居場所にもなる。大切なものがたしかにそこにあったのだと確信を得るために、何度でもそこに戻っていく。

過去を思い出し不在を嘆く時間は、なんの生産性もない不毛な時間にも思える。悲しみや苦しみはマイナスの感情であり、そんなことに割く時間があったら未来が楽しく幸せなものになるように努力すべきだという考え方は相変わらず根強い。

しかし悲しみと幸福は表裏一体であり、悲しみを否定することは過去の幸福の否定でもある。だから人は悲しみを「なかったこと」にはできない。

幸せだったから辛いのだ。失いたくないと強く感じるものがこの手にあったことが幸福なのだ。

何に悲しむかは何を愛したかだ。だから、悲しみという居場所を安易に奪ってはいけないのだと思う。他人に対しても、自分に対しても。

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映画は、「ああ、悲しみの果てにはちゃんと朝が来るのだ」と感じさせる終わり方だった。「朝が来る」ことは、必ずしも「希望がある」と同義ではない。今日より明日の方が悪くなっていることもあるし、朝はきてもどしゃぶりの日だってある。

それでも朝は来る。悲しみを抱きながら、何度も同じ場所に立ち戻って不毛な時間を過ごしているように見えても、また新しい一日はやってくる。過去は変えられなくても、未来はやってくる。

これこそが本当の救いなのだと思う。忘れなくても、解決しなくても、それらをすべて抱いたまま、人は朝を迎え新しい一日をスタートさせることができる。

何度も同じ場所に戻ったり立ち止まったりしながら、私たちはまた新しい朝を迎える。

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