『友人』になれる本の条件 #BOOKTALK
『今年から、本と"友達"になろうと思ってるんですよ』
#BOOKTALK イベントの冒頭から、櫻田さんは新たなテーマを投げかけてくれた。
改めて言われてみると、私は本とどんな関係を築いてきたのだろう、と考えさせられる。
そして本と友人関係を作るとはどういうことなのだろうか、ということも。
一般的に、人と本の関係は『師弟関係』に近いのではないだろうか。
知らないことを、まだ見ぬ世界を、何かしらの答えを、『教えてもらおう』という動機で私たちは本を開く。
つまりそこにはいつも自分なりの仮定やテーマが先にあって、その答えを求めて本に助けを求めている状態とも言える。
私は昔から、『読書とは偉大なる先人との対話である』と考えてきた。
しかし知識の移動だけをみればそれは一方通行の運動にすぎない。
読書中に私がどんなに『ここは違うと思います!』と言ったところで、その本の中身は覆らない。
私の存在が本に与える影響は、ほとんどない。
それでも私が読書を対話的営みであると考えているのは、それが自己との対話を促す装置だからである。
ただ新たな知識を得るだけではなく、『あのときのあの体験にはこういう意味があったのかもしれない』『この話はあの話に通じるのかもしれない』とシナプスがつながっていき、自問自答のための壁打ち相手になってくれる本こそが、いい本なのではないかと私は思っている。
一方で、冒頭の櫻田さんの言葉を聞いたとき、私は無意識に自分が本との関係を師弟の枠組みで考えていることに気づかされた。
本に書いてあることが正しくて、それを理解できない自分が悪いのだ、自分がまだその高みに達していないのだという上下関係。
もちろん過去の偉人たちが残してきた書物はそれ自体が完成されており、私の稚拙な考えなど足元にも及ばないのは百も承知なのだが、もっとフラットに『私はそうじゃないかな』と言える関係を本と取り結ぶこともできるのではないかと思う。
では師弟関係と友人関係の違いは何かといえば、価値観の支配力にあるのではないだろうか。
オルテガは『大衆の反逆』の中で、支配についてこう説明していた。
支配とは、他から力を奪い取る態度ではなく、力の静かな行使なのである。
お互いに意識すらしないほど静かに、ひとつの価値観がすうっと全体を包み込んでいくこと。
それこそが支配の真髄なのではないかと思う。
一方で、友人関係はよりフラットで、ときに攻撃的である。
常にすべてに納得しなければならないわけでもないし、『ここは好きだけどここは嫌い』でもいい。
素直に教わる姿勢は必要だけれども、自分の中の批判的精神や感受性を守るためには、常に教えをこうだけではなく、フラットに友人のように付き合っていけるような本もまた必要なのかもしれない。
もちろん友人関係からも学ぶことはたくさんある。
でもそれは学ぼうという意識をもって学ぶものでもなければ、ひとつの名言やフレーズによって世界観が変わる類のものでもない。
長く付き合って、その文体や哲学世界に慣れて、あるときふと『そういうことか』と気付くようなものなんじゃないか、と思う。
友人のように、付き合える本。
そんな一冊を探して、私はまた本の海に向かうのだろうと思う。
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