『読む』というクリエイティブの力 #BOOKTALK
読書は情報をインプットするための受身な行為である。
世の中はアウトプットの重要性を説く言説で溢れているし、読むだけ・見るだけではたしかにお金は稼げない。
しかしインプットが人間の行為である限り、全員が同じ感じ方をすることは不可能だ。
さらにアウトプットはインプットに対する個人のフィルターありきのものだから、インプットの時点で私たちは創造性を発揮している。
読むことは、それ自体がクリエイティブな活動なのだ。
先月開催したイベントで、ゲストの渡邉さんが私の過去ツイートを引用しながら読書のクリエイティブ性について話してくださったのを聞きながら、そんなことを考えた。
noteでも「クリエイター」という言葉がよく使われるけれど、創作活動はアーティストや一部の人が行う特別な活動を指すわけではない。
「ちょっといい朝ごはんを作ってみる」ことだって創作活動だ、と加藤さんは言う。
たとえ些細なことでも、自分の知識と経験をもとにしてよりよくしようとする努力を、「創造」と呼ぶのかもしれない。
では読書の創造性とは何かといえば、自分の中に積み重なってきた知識に新たな知識をどう融合させるか、という点なのではないかと思う。
よく名作は人生のフェーズによって響く箇所が変わるというけれど、それは年を重ねることによって自分の中に蓄積されるものが変わり、視点や読み方が変わるからであろう。
「カラーバス効果」という言葉があるように、そのとき頭の中にある課題やテーマによっても目に飛び込んでくる文字列も変化する。
その化学変化こそがクリエイティビティであり、その人自身の個性である。
さらに読み継がれてきた本たちは、その作品単体だけではなく、作品を取り巻く文脈もあわせて「読まれて」いる。
源氏物語はその作品性の高さもさることながら、小説、エッセイ、和歌、演劇、映画など様々なコンテンツで物語の筋が下敷きになっていたり、似たキャラクターが出てきたりと大きな影響を与えている。
日本人で源氏物語の筋を知らない人は少ないだろうし、「◯◯界の光源氏」と言われればそこに付加された文脈もたいていの人が読み取れるだろう。
逆に漫画やドラマから原作に興味を持って、手に取ってみた人もいるかもしれない。
批評も時代によって微妙に変化していくし、解釈もアップデートされていく。
私たちは、そうした文脈まるごと「読んで」いる。
人が1人で生きていけないように、本も大きな時間軸の中で他の本と関わり合いながら存在しているのである。
そして今や、作家や批評家といった特別な人でなくともブログやSNSを通してそのコンテキストに参加できるようになった。
感想というこの世に唯一の創造物を何かしらのかたちに変えて公開することで、その作品の文脈づくりに加担できるようになったことは、これからの娯楽に大きな変化をもたらしたと私は思う。
創作は特別なことではなく、些細なものの積み重ねの結果として花開く。
「読む」という行為もまた、その些細な活動の一つなのだろうと思うのだ。
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