見出し画像

うまくいかなかったことは、文学になる

通常、歴史は勝者の視点から語られる。
現在支配している側の解釈が正史となり、それが「事実」として受け継がれていくのが世の常だ。

一方で、たとえば日本書紀に対する古事記のように、鎌倉正史に対する平家物語のように、歴史の裏には常に「文学」があった。
歴史書には描かれなかった悲喜交々を文学から読み取ることで、私たちはより立体的に過去を遡ることができる。

現代でも、書籍になったり漫画やドラマに描かれるのはいつでも「成功譚」であり、求められているのは勝者側の視点だ。

発信が苦手な人の多くは、「書くほどのことはしていない」という引け目から筆が重くなっているのではないかと思う。
マーケティング施策も起業アイデアも新しいキャンペーンも、成功の秘訣を堂々と書けるほどの結果を出すことの方が稀である。

しかし世の中は常に勝者の視点ばかりを求めているものなのだろうか。

歴史を振り返ってみれば、前述の古事記や平家物語に加え、新撰組や白虎隊など敗者の物語が人気を博した例は枚挙に暇がない。
純文学もその多くは社会的成功のレールから外れた人物が主人公である。

私たちは勝って成功するための方法を知りたいと思う一方で、敗者の境遇に共感したい生き物でもあるのだ。

つまり無理に立派なことを発しようとせずとも、等身大の発信が共感を呼び、ファンを作ることもある。
日本書紀は海外や後世を意識した立派なストーリーに仕上がっているが、物語としては古事記の方が面白いと語る人の方が多い。
古典として現代も読み継がれているのは、日本書紀よりも古事記の方である。

発信において誰かの役に立とうとする意識は重要だが、役に立つことは意外と内容が似通っていたりもする。
わかりやすいHow toをどれだけ書き連ねても、自分のファンをつくることはできない。
人は失敗や抜けている部分に愛着を感じ、応援したいと思うものだからだ。

以前バズりにバズっていたこちらのnoteも、「全店舗閉鎖」「会社を清算」という経験を等身大の言葉で語ったことが反響を呼んだ理由なのではないかと思う。

一般的には資金調達や上場、大企業との提携、数字の大幅な改善などいいニュースがあったときに発信したいと考えるものだろう。
しかしニュースになるほどの成功は、そう起きるものではない。

むしろ日常に目を向ければ、うまくいかないことや答えのでないこと、辛いことの方が多いはずだ。

だからこそコンスタントに発信して応援してくれる人を増やすためには、そうした「かっこよくない部分」まで開示することが重要なのだと思う。

もちろんただの愚痴や不平不満になってしまっては読み手にとっては楽しくないので、その経験を学びや笑いに変えるプロセスは必要だが、うまくいかなかったことを発信して評価されるようになれば強い。
生きている限り、うまくいかなかったネタは尽きることがないからだ。

うまくいかなかった経験や苦労は、料理の仕方次第でいくらでも成功のための糧になる。
歴史のB面は、敗者の文学によって作られているのだから。

サポートからコメントをいただくのがいちばんの励みです。いつもありがとうございます!