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風景読み

私は、小説を読むのが苦手だった。
そこであれこれ、考え、風景読みというのをやってみたところ、なかなか、読み進められなかった小説を一気に読むことができた。
このように、攻略法を用いて、工夫することは、案外、壁にぶちあたったときに、必要なことなのかもしれない。

※風景読み・・・・風景を読むように、全体を見渡して、作者の言いたいこと,主張、意訳、何が言いたいのか、だれが重要な人物で、中核となるのは誰か、など、概略、大意を、推論しながら、1分間に、50pほどの速度で読むというもの。

最近では、自分が、時間認識で語られるとき、かなり、長ったらしい話にことに気がついた。対して、短い話のとき、空間認識で語られることが多いように思った。
後で見返したところ、自分自身についてのアイデアや、考え方は、長ったらしいものである方が理解しやすかったのに対して、他人の知識や、主張は、短い1行に表したものの方が、わかりやすかったように思った。
仮に、時間認識が、光のあてもない旅(自分)である場合、連続な物語が、好まれ、その光が反射するような、空間認識においては、粒として、物理的に返ってきたような不連続である、短い文章を好むように思えた。
この例として、雑学本の知識が挙げられる。
雑学そのものを知識として習得したあと、復習する際に、そのタイトル1行だけをみて、復元できるか、どうかを試しにやってみたら、かなり思い出せたのである。
つまり、他人の知識は、一読して、意訳したあと、1行のタイトルとして残しておけば、復元できたかを、確認できるかどうか、ということだ。
この1行の一つの知識が、複数、関係を持たず、次々に、書かれていって、30個ほどになっているのであるが、どれも満遍なく意訳を、復元できるようになっている。
対して、以前書いた、アイデアや、考えた内容を、1行で表した自分だけのための文章を見返しても、さっぱりわからないということがあった。
しかし、こうして書いた長ったらしい文章は、2000文字でも、あれのことか、と思い出せたのである。このように、他人の知識は、1行タイトルで思い出せるかどうか、にかかっており、自分のための文章は、長ったらしく、意味を伝える熱が必要だということなのである。

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