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物事の8つの側面

物事には4つの側面しかなくその掛け合わせでできている。例えば、物質的に動いるのか、静止しているのか、また、精神的に能動的か、受動的かの4つの側面がある。

「物質的な問題」
①動いている
②静止している

a

「精神的な問題」
①能動的である
②受動的である

b

またさらに、動いており能動的に取り組んでいるのが運動することであり、静止しており能動的に取り組んでいるのが勉強である。
 また、動いており受動的なものが将棋であり、静止しており受動的なのが読書である。
必ずしもそうとは言えないがここでは単にあてはめておくことにした。これら4つの平面上の符号とも言えるものaとbの掛け合わせで行動ができていることがわかるだろう。
 ここでその健康的である割合からいって次のようなものが代表とされる。

   「健康的な順位と大小」(躁;左脳優位

⑴動いていて能動・・・・運動
⑵静止していて能動・・・学習
⑶動いていて受動・・・・将棋
⑷静止していて受動・・・読書

能動的か受動的かというとやはり能動的な方が良いし、そこに動いているか静止しているかはどうでも良いだろう。
 ここでいいたいのはそのようなものだけがあり、どのような性質をもちそしてどのようなものに活かせるのかが問題とされる。

a・b=c
c

このうちcのように動能なものと静能なものが互いに影響を及ぼし、また、静能なものが静受なものとどう関わっているのだろう。
 また、静能なもの動能なもの、動受なものと静受なものがどう関係しているのだろうか。
 逆に、この「健康的な順位と大小」を反対にすればどうなるのだろうか、それも気になるところである。
ここで言いたいのは能動的であればあるほど左脳的であり、受動的であればあるほど右脳的であるということだ。これは、物理的な動静に関係なくそうであるということ。
 つまり、「健康的な順位と大小」を逆にしてみると右脳的になり、否定的で批判的なひとになり、鬱気が生じるということである。

   「不健康な順位の大小」(鬱;右脳優位

⑴小説を読む
⑵将棋
⑶学習
⑷運動

ここでさらに意識の問題にまで発展させてみよう。わたしたちは常に無条件に肯定された存在である。生き死にも自分で決めたわけではない。与えられた存在であると言える。それなのに社会が成り立つためには条件的なものを肯定しなければならなかった。ここに存在と意義の問題が生じていると言っていいだろう。
 条件的な社会が優ってくると今度は無条件的な自己の存在が小さくなる。容姿端麗なひとや財産を相続によって多く受け取った人にみられる鬱な症状は、およそ先ほどの考え方からわかるだろう。つまり、物質的な豊かさや容姿が他と比較して受動的に訪れた存在(自ら獲得したものではない富)は鬱「右脳優位)を導き出し、その反対に、物質的な豊かさを他と比較して能動的に獲得した存在は躁「左脳優位」になるということが言える。
 ここに無条件なものが右脳の性質であり、条件的なものが左脳の性質にあるということを示している。
 今後この課題で書いていくことになるが、ひとまずここまで定義しておいておくことにした。

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