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記憶の補助線

小説
 
    mummy‘s Garden


母は今日も花を植える。
彼女にとって花々は友たるものといえるだろう。朝から晩までまるでターシャシュチュアートのように土に跪いて裸足で花を植えるかのように花を生ける。
それはまさに“今日世界が終わるとしても、私は花を植える”という精神になるだろう。
彼女は何らかの痕跡を残したい飲もかもしれない。それか、人生の補助線を死後にも誰かの記憶として残しておきたいのかもしれない。いずれにしても、彼女は今日も花を植える。

「母さんはなぜそんなに熱中できるんだ?」

「知らないわよ。体が勝手に動くのよ。それより観て!ポピーよ。ポピーはヒナゲシ、ココリコともいうのよ。咲いたわ。まあ!綺麗!。」

「へえー咲いたんだ。僕にはわからないなあ。確かに綺麗だけど。花の名前そんなには覚えられないよ。ごめんね。」

母はこのところ咲いた花々の名前をポンポン挙げて説明してくられるが雅志には全く覚えられないのでいたのだ。
こうした記憶違い、また、そうした記憶できないことがmummyにとって人生の補助線を作ろう、痕跡を残したいという心もちにさせるものがあった節もあらないでもない。
まして、自分の死後、記憶することができるのは彼女自身ではないことから、記憶の補助線は、彼女の生まれ、そして死ぬまでの始点と終点をA、あるいはB、はたまたCというように描くことができるようにしたかったのだろう。
それの補助線がまさに始点と終点の延長線上に引かれるものなのか、それともその補助線が架空のABCの乱立した線として描かれるのかはそもそも知れたはなしではなかたのだ。
当然雅志も、こう考えていた。
つまるは、母さんは、始点と終点の延長のpというただの下線よりも、私たち家族が補助線を引くα・β・γという延長線上にそのまま将来の記憶があるものではない線を引いて欲しがることをなんとなくわかっていた。僕たち残された家族がpという線をただ定規で引くのではなく、たくさんの線それは曲がりくねった曲線α、あるいは直線β、それとも、連続的な線γを記憶の中でよりよく引いて欲しいものなのだということだろうと思っていた。
単なる定規で引かれた一本の線より、多数の解を持つ将来がα、β、γと散らばっている線なのかは大きな違いがあるだろう。
少なくとも、彼には“定規で引いた単純な一本の線;pを引きたくはなかった”のである。

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