最後の審判 その時は必ず来る

==愛にすべてを==
==小説の題材のための仮想==

純粋な人間性の勝利である


想定しうる現実的な地獄に勝ちえたなら、これ以上の地獄はなかろう。
このような考え方から、ハルマゲドンと名付けた。いわゆる、最後の審判だ。
わたしの地獄とは、全く普通のことだ。
例えば、友人の結婚や、大きな成功、家族の成功、家族の大きな成果、結果だ。
さらに地獄なのは、それによるわたしの比較である。内なる審判といえるものだ。
つまり、外部における+が、内部における−になる帯電作用だ。これは、自動的に行われるから、内なる審判といえる。
結果というのは、オセロみたいなものである。
結果を取れば、ほとんどのひとは、それまで、そんなの無理だ、できっこないとか言っていたいのに、ほれみたことか、できると、いっていただろう!と、まったく違うことを言いだすのである。このような現象は、極値における帯電といえる。つまり、マイナスのことを言っていたら、結果というものから、プラスのことをいうようになるということだ。
このような人達は、まあ、自然現象に巻き込まれているので、無視していいが、ここで大切なのは、現象として捉えることだ。自然現象を超えたものでなければ、それは、わたしが、所有しているものとはいえない。従って、自然現象に巻き込まれている場合ではないのだ。
最後の審判は、自分が想定する、地獄が、天国に導かれるか、否かの話だったが、この場合、自分の想定される地獄である必要がある。
また、天国もそうである必要があるということだ。
この場合、自分の土俵で勝負した場合のハルマゲドンなので、ひとは、それをすべて、知りえないし、理解すらできないようになっているだろう。

自分の土俵で戦って勝て!


わたしの最後の審判というものがあって、それは、わたしが,想定しうる地獄が、天国に変わる時を意味するが、それが、実際起こるかどうかは、不明である。
しかし、ここでいいたいのは、そのハルマゲドンは、必ず来るということである。
現在のハルマゲドンは、詳しくいわないが、確率VS実力のところで述べたものになる。
つまり、わたしが、確率によって、勝つか、実力によって、勝つか、というものの勝負であり、仮に、確率が勝った場合、その恩恵が、当然、わたしと関わる人達に行き届く。
そのとき、その人達は、さらに、成功や、名誉を加速させる。しかし、それでも、わたしは、勝てるか・・・・というのが、最後の審判だ。
愛とは、ここでは、帯電して、すべてが、ひっくりかえってもなお、同じ態度、同じ状態、同じことをできるチカラのことをいう。
愛とは、自然現象ではないということだ。
ここで重要なのは、自分で、最後の審判なるものを創って、それに打ち勝つだけのチカラを得るという、人間的な物語となっているところだ。自ら、最後の審判を創り出し、そのような地獄であってもなお、その人間性によって、勝利を得るということなのだ。
これは、利益や、公平さを超越した考え方だといえる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?