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背後の影をつくる “不動の導者”

〈その先を目指した〉

私がやっていることは、数学、英語、社会、漢字、小説といったものである。
しかしそれがある段階で完成したとしても、それは終着点ではない。
その先を目指した趣味”という形でここで書いたのは、それを表わすためだ。
では、ひとつの、今現段階でわかる何ものかの影を追うことにしたい。
例えば、漢字、というものを一つとっても、それが、6200語、漢検で出題され、四字熟語が、2000語ほどあっても、合計8200ほどの語を覚えれば良いということになるが、それで終わりなのかというと、そうではない。
およそ、漢字は、さらにその先もあり、5万語、とか10万語とかあるそうだ。
さらにそれが終わったとしても、その先に、歴史的経緯から、漢文や、平仮名であれば,古文などに発展することになる。
この背後にあるものを問い詰めていくことは、現段階では、正確ではない。
しかし、動機となるものを作るために、未知なるその背後の影を追うことは、重大な意味と、興味を与えてくれる
と、信じる。
しかし

それは、魅力的であるものであり、決して、せねばならないこと、ではあるべきではないのだ。
この“せねばならぬ”ということ、また、“魅力的に映る”ということは全く異なる。


〈背後の影を追う〉

背後にあるものさえ、わかれば、もしかすると、その影から、明暗により、光が導き出される可能性もある。
なぜなら、影がある、ということは、光があるということが、言える
のではないか、というような寸法だからだ。
このように、背理法のような動機の探り方は、およそ、魅力あるものになるし,何より、好奇心を生み出すことであろう。
数学にしても、それを終わらしても、算数,物理、化学、生物、地学と続き、延々と、今も終わり得ない、超大統一理論である、重力の問題に着手するために、あらゆるアプローチを、物理的観点から用いねばなるまい。

〈趣味の合算、趣味のハーモニー〉

できる、ことを褒められることは、喜ばしいことだ。それでも、それだけに止まらないものがそこにある。
そこで成長を止めることはないだろうから、やはり,さらに褒められようとする。
しかし、その褒めた人物が、何を褒めるべきかさえわからないのなら、その褒めれることは、なくなってしまうだろう。
つまり、自分の方が、その誉めた人物より、上回った場合、褒める行為は、なくなる、ということだ。
こう考えると、褒めるという行為は、ある程度、上下関係があるように思う。
つまり、褒めるという行為は、上の者が、能力的に、下の者に、贈る行為なのである、ということになる。
しかしそこでこれを問題にするというより、これを参考にするということなのである。
この行為は、背後の影を追うと、わかりやすくなる。
この背後の影こそが、自分を褒め称える像になってくれるということなのだから。
この背後の影とは、褒めてくれる人物が、いなくなったり、あるいは、褒めるに値しない人物へと、自分が、の仕上がり、褒めることができないほどの能力をもったとしても、成り立つ、内的報酬なのである。
しかも、この背後の影とは、常に変化し、絶えず、成長しているのである。
さあ、みんな、背後の影を、作ってみようではないか!(すなわち、大きな動機、我々を突き動かす不動の導者を)

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