見出し画像

太陽の丘

小説  「太陽の丘」

咲なれぬ果ての花はいまでこそ雨に濡れぬ時の花として咲き乱れる。彼にとっての華とは一体全体何だったのだろう。それを考えてみても時の子守唄のようなものであったり、言えぬ感涙のその華は、時は未だ満ちぬ・・・。さりとて香しき華の香りがしないわけでもない。藍那悟はそう持って花を育てている1人の若き一園の花にそのような願いを託すのだった。彼はピアノをここ何年も弾いておらず、感傷的な想いに耽ると奏てみようという心もちなるものを持たざるをえなかった。大人の弾き方それはなんだろう。大人とはそもそも何なのか、客観的であれば良いのか、それとも如何にも常識的に現実的に考えられるひとのことを指すのか、はたまた、常識的に大人びた態度で振る舞いながらも、子供のときの心なるものを忘れないひとのことなのか、悟にとってそれが一体何なのかわからなかったのである。
「どうしたの?悟。あまり水を遣り過ぎるとかえって枯れてしまうじゃないの」
そこにいた母が応えた。
「ああ。考え事をしていたんだ。別に水を遣り過ぎたわけでもないし、それにこの間から晴れ続きで水気がまるで感じられない。これはこれでいいんだ。」
悟もそれに応じた。
 彼にとって客観的な大人も、大人びた態度も、常識的に振る舞い考えることも、そしてそれでいて子供の時のような心なるものを忘れないということさえ疑わしいものであった。大人というものが誰によって決まり、何によって決まるのか、それは誰もわかるはずないからだ。すべては主観であり、誰も、レヴィナントの「全体性と無限」にあったような全体性という責務から抜け出せないそのことこそが“大人と呼ばれるようなひと”なのであるとさえ思っていた。無限なるものがまるでそれが対立するわけでもなし、同と他を結びつけて離さないものでもない、ただ、言えるのはその“責務”からどう逃れることができるかどうかが大人の証明だと考えていた。
悟は、この“責務”なるものの全体性についてよく感じていたため、その存在に気づいてた。だから、単なる成功によるお金持ちや、単なる努力によって得た地位も名誉も、そのひとを大人たらしめんものの証明とは思っていなかったのである。
「母さん・・・ところで大人って何だろう?」
不意な質問に応答しかねた母は、笑を浮かべながら、応えた。
「あら。悟は、どうしてそのことを気にするの?」
母は、それについてよく自分でも考えたことがあったから、まず、それを問う理由を探っているようだった。
「そうだな。最近、読んだレヴィナントの全体性と無限という本が気になっていてね。最近の世間は、何か、そうだな倫理観というか責務が独り歩きしているようで、なんだか重苦しくて嫌だから、責務とか、大人って何だろうて思ったからさ。」
「悟は、難しい本を読んでいるのね。」
そうは母言ったが、自身はハイデガーの「存在と時間」を読んではいたので、ある程度サルトルやそうした実存主義についてしっていたし、アリストテレス以来、なかなかメスが入らなかった“存在”についての言明をこのレヴィナントを読まずとも察していた。母は常々、「実存は、本質に先立つ」という言葉を発していた。悟は、読んだことがなかったが、カントの「純粋理性批判」におけるアプリオリな存在をこの言葉からいつも思い起こすのだった。悟るにとっての実存とは、無条件的なものであり、肯定的なもので、道徳と倫理を別つ問題に接触していると思っていた。というのも、道徳は、条件的であり、倫理は、押し付けることのできぬ、カントでいうところの定言命法であるから、誰もが介入できる領域ではないと考え、道徳は誰もが介在できるものであるという考え方であったからだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?