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エッセイ / 温かくてさみしい、盆の送り火

「視線を動かしている」と認識できるレベルの速度で、奥から手前へと鈍色の雲が流れてゆく。風が強い。時折、小さな雨粒が額を叩いた。こんなコンディションでは、きっと彼、彼女らも元の場所へ帰ることすら一苦労だろう、と思わざるを得なかった。

強風域を抜けたばかりの、まだ天の怒り鎮まらぬ空の下、久しぶりに盆を故郷で過ごした。台風10号と真っ向勝負してしまったことで、迎え盆は父がなんとか墓に線香をあげた程度。ろくに出迎えもせずに先祖を見送るのは忍びなかったが、我が家は本日、送り盆であった。

先祖を出迎え、見送る。欠かせないのが「火」である。

私が記憶している限り、十数年前までは迎え火、送り火を家の前でやっていたものだが、今ではその習慣を続ける家も少ない。ましてやこの天気だ。墓地までの道すがら、焚き火をしている家はどこにもなく、我が家はこの騒がしい空の下、墓のそばで火を焚いた。

本籍のある祖父母の家は、今では居住空間だけを備える平屋だが、それ以前は営んでいた米屋と繋がっており、盆には確か店先のコンクリートで火を焚いていた気がする。

ちょっと触っただけで棘が刺さってしまいそうな焚き木、灯油を染み込ませた新聞紙の香り、大きくはないが決して小さくもない炎のかたまり。

数年ぶりに対峙したそれは、懐かしいという感情と同時に、「温かくてさみしい」という不思議な感覚を駆り立てた。

私の先祖もこうして火を焚き、盆の度にその先祖を迎え、見送り、魂の流れを見守ってきたのだろう。わたしも彼、彼女らの魂がこの火によって、ひと時でもこのふるさとへ帰ってこれたのであれば、うれしいと思った。そしていつか、そう遠くない未来、わたしもこの火に見守られ、どこかまた遠いところへ帰っていく日が来るんだろう。

先日三十路を迎え、死に対する妙な現実感を抱く瞬間が多いのだが、今日のもまた、それに近いものがあった気がする。

***

先日ラジオに出演した時、DJの方が私の隣でこう言っていた。

「みなさん、お盆はきちんとね、お墓まいりしてくださいね。僕らだってご先祖さま一人いなかったら今ここにいなかったわけですからね」

みなさん、明日も良い一日をお過ごしください。

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