見出し画像

彼女と資生堂、227番

形の良い、私のそれより小ぶりな彼女のくちびるに、するり、するりと、リップブラシを滑らせた。ピンクブラウンのチークだけでは到底叶わない、血色と色気が、彼女の顔ににじんでゆく。資生堂の227番。鮮やかな深紅に、しんと冷える、12月の夜が始まろうとしていた。

***

「化粧をしてみてよ、私に」

彼女からそう頼まれたのは、私たちふたりだけの忘年会の予定を立てていた時のことだった。普段あまり化粧気のない彼女は、はっきりとした目鼻立ちをしていて、あれこれとほどこさずとも凛とした顔をしている。

「いいけど、私の好きにしていいの?」

「うん、いいよ」

その迷いない答えに、彼女が私に寄せてくれている信頼の嵩(かさ)を見たようで、なんだか気持ちよくなったが、かれこれ化粧を始めて10年とは言え、他人にメイクをしたことはない。不安はあった。でも、正直に告白させてもらえるのであれば、この時から私は少なからず興奮していたと思う。

私のポーチには、赤い口紅だけでも5本はある。でもそれらは、勝負の日につける赤、4回目のデートでつける赤、あのパンプスで銀座に行く時につける赤と、すべてに役割がある。それくらい化粧は繊細で、面倒で、奥ゆかしい。

それに、化粧は怖いものだ。くちびるの色ひとつ、たったひとつで、自分のこころを強気にも、しおらしくもしてしまう。そして相手のこころまでも、張りつめたり、緩めたりしてしまう。でもそのスリルが心地いいから、一度ハマると抜け出すことができない。

そんな危険な行為を、他人に、こんなに表情豊かな女性に、ほどこしていいと許されたのだ。この私が。

当日、使うものなど限られた数しかないのに、私はありったけの化粧道具を用意して、彼女が我が家にやってくるのを待った。だって分からないではないか。彼女がどんな服装でやって来るのか(その日は少しおしゃれをして集まろうと話していた)、どんな気持ちでこの日を私と過ごしたいと考えているのか。

ガチャリとドアを開けると、彼女は黒いシンプルなセットアップで立っていた。いかにも彼女らしい、芯のある女性のスタイルだ。

「すごく楽しみにしてた」

嬉しそうな笑顔に、私もつい口元が緩んだ。

「本当に、好きにするからね?」

「いいよ」

最初は加減がわからなくて、少し緊張した。彼女はすごく綺麗な素肌をしていて、化粧水で整えればベースメイクは薄づきで十分美しかった。そこにシェーディング、アイブロウ、ハイライト、チークを乗せていく。途中、鏡を見るたびに「すごい、顔って変わるね」と喜ぶ彼女が愛らしかった。

化粧の中でも、顔の表情を決めるのはアイメイクとリップだ。大人びた雰囲気の彼女には、ブラウンのアイシャドウとアイラインが、黒ほどきつすぎず、かといってピンクのように媚びた気配のない色味でぴったりだった。そこにせっかくのホリデーだからと、星屑をちりばめたようなラメをほどこす。

「どう?」

「いいと思う、すごく」

「じゃあ最後、リップ塗るね。ちょっと口開けて」

数ある中から選んだそれを、少しだけブラシに取って、リップラインから下唇、そして上唇に塗った。思った通り、とてもよく合う色だ。

「いいでしょ、これ。資生堂の227番。塗り心地もいいし、それにね、このシリーズは色にそれぞれ名前がついてるんだけど、これはSleeping Dragonっていうの」

Sleeping Dragonにどんな意味が込められているかなんて分からないけれど、この深い朱色には、女性特有のエネルギーと、優しさと、温かさと、危うさがある。

「どう?」

そう言って彼女に鏡を見るよう促すと、私も鏡像の彼女と目があった。

その瞬間、どきりとしてしまった。

すごく綺麗だった。複雑な音階の組み合わせが奇跡的に美しく重なって、鼓膜の奥の脳髄にぞわりと響いたようで、鳥肌が立った。私は恋愛対象は男性だが、女性に心奪われる時は、きっとこんな思考になってしまうのだろうなと気づいてしまった。

「すごい、魔法にかかったみたい」

「気に入ったならよかった」

彼女が角度を変えて鏡を覗き込むたび、目元の星屑が揺れ、嬉しそうに口角が上がれば、くちびるが彼女の感情を雄弁に語った。

***

私も軽くグロスを塗り直して、その日は街の洋食屋に出かけた。カリフラワーのスープも、カニクリームコロッケも、レバーのペーストも、カラメルプリンも、私と彼女の、くだらなくて、真剣で、結論なんてない話をどこまでも豊かにしてくれる料理ばかりだった。

いつも通り、私たちの楽しい時間だった。けれど、彼女のシャンパングラスに残った口紅を見るたび、少し動揺したのは、ここだけの話だ。

(2018.12.26執筆)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?