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2022/09/10

BGM: Pet Shop Boys "Dreaming Of The Queen"

私は高校生の頃に山崎浩一というコラムニストの書いたものと出会って以来、彼の説いた「複眼思考」という考え方をどこかで実行しているのかもしれない。誤解があるかもしれないが、相反する事態をそのまま思考の中に取り入れて考察する態度と言えばいいだろうか。安倍元総理の体現したナショナリズムについて考察する傍ら、彼に献花を捧げた人々の心理をも同時に重んじるように務めること。エリザベス女王への敬意を払う傍ら、彼女が嫌われていた可能性についても考えるということ(日本のメディアで「彼女は誰からも好かれていた」という「神話」が作られてはいないか? と疑ってみること)。

……こんなことを考えてしまう自分は本当に真の意味で「冷笑的」だな、と思って我ながら呆れてしまう。いじめられるわけだ。だが、事態をわかりやすく整理されたものとして理解したいという誘惑は危険だとも思うのだ。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが語った「シングルストーリーの危険性」とはそういうものではないだろうか。私自身怠惰なのでついステレオタイプなイメージに寄りかかった思考をしてしまう。リアルの事象に触れて自分のそうした偏見を崩し、自分の頭で考えるという作業を怠ってはいけない、と自分に言い聞かせるのだった。

明日は同時多発テロ事件が起きた日。日が経つのは早い。あの事件のあった日のことを私は実はぜんぜん覚えていない。あの頃、私は骨の髄まで酒に溺れていたのでただ毎日が「死にたい」「疲れた」というネガティブな諦念に満ちていて、日々をのんべんだらりと生きていたのだった。あるいはアメリカで起きた出来事なのだから日本と何の関係があるんだと高を括っていたところもあったかもしれない。今はそんなことは考えない。テロが私たちの平穏な生活を崩すかもしれない可能性について考えること(生活を恐怖で脅かすというその怖さこそ「テロ」の本質であるということ)を考えることには意味があると思う。

こうした「世界を揺るがす事件」と「自分の生活」の関係というか、自分と世界規模の事件の折り合いの付け方を考えるのは難しい。私はDiscordやWhatsAppで出会った海外の知り合いがそれなりに居るので、彼らから多くを学んでいる。日本に居ては見えないことも学ばせてもらっている。そんな彼らのリアルと私が私の生活から学んだリアルを、あくまで浮足立つことなく着実に考えて語るということ。そうしたことができないかと考えている。イデオローグや知識人を気取るのも柄にもないというか、どうせそんなことをしてもバカがばれるだけだとも思う。身にしみないことややりたくないことはしない、というのが私がこれまでの人生で学んできたストレスフリーな生き方のための奥義なのだった。

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