2022/11/03

今朝、ジュディスさんがclubhouseで開いたルームに参加させてもらった。そこで私のメモパッドの話をする。アイデアを英語で書き付けていること……話しながら、やはり自分の英語はまだまだだと思った。とっさに口から出てくる言葉が意味が通じるものか、自信が持てない。でもジュディスさんはいつものように、私のが話したいことを汲み取って下さって彼女自身の日記やメモについて話して下さった。いつもジュディスさんはこうして参加者をフォローして巧みに話を引き出して下さる。この話術と人柄に改めて惹かれるものを感じた。

今日は休みだった。イオンに行き、そこで十河進『映画がなければ生きていけない 1999-2002』の残りを読む。音楽はブラー『ザ・マジック・ウィップ』を聴いた。ブラーの音楽からはこれまでずいぶん救われてきた。ブラーと十河進、期せずして両者は「オトナ」の音楽というか、ままならない人生を何とかユーモアで乗り越えようとする姿勢を感じるのだ。ユーモア、あるいは大人の余裕。私だって時には自分が不幸のどん底にいると思い、自己憐憫にはまり込むことだってある。でも、そんな気持ちに囚われていても誰もついてこないと思うのだった。前を向いていたい、と。

午後、時間があったのでウォン・カーウァイ『花様年華』を観る。ウォン・カーウァイの映画は『恋する惑星』を観て、あの映画が(優れたものではあったにせよ)肌に合わないものだったのでこの映画をなかなか観られなかった。だが、観てみるとこれもまた「オトナ」の恋愛を描いた実に成熟した作品であると思った。キスすら交わさない、ムードの高まりでこちらを釣っていく作品だったのだけれどそれが逆にエロティックな作品よりもリアルで、こんな映画を生み出したウォン・カーウァイの底力を感じた。チャラチャラした監督だと思っていた我が不明を恥じる。

夜、もう一本映画を観るべきかどうか迷ったのだけれど結局十河進『映画がなければ生きていけない 2003-2006』を読み始める。この本の中で、川端康成が『山の音』を書いたのが50歳の時と書かれていて絶句してしまう。『山の音』は一度だけ読んだことがあるが、もっと老いた作家によるものだと思い込んでいたのだった。恥ずべきことなのかなとも思うが、今の私は47歳を迎えてまだ性欲を感じることもあるし、好奇心だって持ち合わせている。流石に体力や気力は昔ほどではないが、自分の中にはブラーの『パークライフ』『ザ・グレート・エスケープ』を聞いて胸をときめかせていた20代の自分がまだ存在しているように思ってしまい、その「稚さ」に我ながら呆れてしまう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?