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2023/08/01 BGM: Ryuichi Sakamoto - War & Peace (Cornelius Remix)

『バービー』『オッペンハイマー』をめぐる騒動についてあれこれ考えている。いや、考えるとしたらもっとジャーナリストよろしくソースを深く辿って語らないといけないので現時点で「不十分に」「憶測も交えて」語ってしまっていることを断っておくけれど、まず気になったのは「日本人として『原爆は許せない』と声を大にして言うべきだ」という意見があったことだ。こういう時、ぼくの中で「それってほんとうか?」と言う「悪魔の囁き」が生まれてくる。「日本人」の中には「あの原爆は必要悪だった」「戦争を終わらせるためには仕方なかった」という人だって存在しうると思うのだ。これは悪しき「相対主義」「冷笑主義」だろうか。「じゃ『お前』はどう思うんだよ」と言われるかもしれない。ぼくは原爆はやはり「許せない」と言いたい。それは何の罪もない民間人を多数巻き込む「無差別テロ」「無差別殺人」が許せないのと同じ理由からだ。だが、ぼくの中の「悪魔の囁き」が「だったら、お前はあの戦争をどうやったら『すみやかに』終わらせられたと思う?」「あれ以上犠牲者を出さないためにはどうしたらよかったと思う?」という「クソ」な、でも無視できないリプライを飛ばしてくる(ぼくは日々、こうした「悪魔の囁き」と戦っているのだった)。

当時の「常識」「良心」が今ほど「アップデート」されていなかったというのもありうるかもしれない、とも思う。これはまったくの憶測なので異論・反論を積極的に歓迎したいのだけど、当時は今ほど「平和」という理念が崇高なものではなかったのではないか。「戦争」が「絶対悪」ではなく、「問題解決の一手段」であった(でしかなかった)時代……いや、こう考えていくと「推測に推測を重ねた領域」に足を踏み入れていくことになる。そこから「陰謀論」への距離は「あと一歩(だけ)」だ。今のぼくたちは「アウシュヴィッツ」や「ダッハウ」、「ヒロシマ」や「ナガサキ」を知っている。戦争が生み落とした貴重な『夜と霧』を読むこともできる(日本の文脈で言えば、ぼくは大岡昇平『野火』や大西巨人『神聖喜劇』を連想する)。そしてそこから、罪もない人たちが殺されてしまう「戦争」が理不尽であることを腑に落ちるものとして受け留められる。だが、「当時」……そこまで「戦争」が「弱者」を「理不尽に」「虫けらのごとく」殺しうる類のものであることがわかられていなかったとしたら? ということを考えてしまうのだった。「弱者」はあの時代、どこまで「見える」、「可視化」されたものだっただろうか、と。

だが、ぼくは「あの当時『戦争』『原爆投下』は仕方なかった。だから相手を許して水に流そう」とも言いたくない。自分でもこんな自分はぜんぜん煮えきらない、実に優柔不断というか「日和見主義」「風見鶏」な人間だと思ってあきれてしまうのだけれど……それでもそうした限界を踏まえてもなお、「進んでなかった当時の常識」について「今の常識」の視座から「批判」を加えることは大事だと思うのだ。そうして「過去」を批判的に捉え直すことが「今ここ」に至る自分たちの足取りを見つめ直すことにもつながる。「当時は仕方なかった」「当時の限界もあった」という事情をリアリスティックに受け留め、そこから「でも、人道的でないことは断じて許せない」という原理原則に立ち返ることは不可能ではないはずだ。だからぼくは、「ナチはいいこともした」「ヒトラーはこんな『業績』をも残した」的なことを「全否定」することは端的にリアルではないと思う。いや、もちろんぼくはホロコーストを許さないし優生思想についても「ナンセンスだ」と言い続ける(特にぼくのような発達障害者は、そうした「優生思想」の犠牲になりうる対象だからなおさらのことだ)。歴史修正主義者や冷笑主義者の屁理屈に呑まれることを避けつつ、だが同時に「リアル」「現実的」に反論するにはどうしたらいいか。そんなことを考える。

今日は早番だった。昼、いつものように詩を書く。夜は時間があったので松浦寿輝『青天有月』を読む。そして、書けるようなら詩のみならず散文で(具体的には「エッセイ」「コラム」という形で)詩に関して何か書きたいとも思い始めた。だがさすがに1日の中で「朝に日記を書き」「昼に詩を書く」生活を送っているとアウトプットの過多も甚だしく、インプットが足りなくなる。この日記を止めるのも一種の解決法になりうるかなとも思った……『青天有月』を読むと松浦寿輝の小説を読み返したくなり、読めるようなら図書館に行き『巴』や『半島』を読みたいとも思う。書きたいことを書きたいように、思うがままに書けばいい……今日読んだ『青天有月』はそんな教えを(ロラン・バルトに触れつつ)教えてくれた本だった。今年こそ読めるようならプルースト『失われた時を求めて』を(絶対挫折するに決まっているけれど)読んでみるかとか、ルイス・キャロルの詩を読んでみたいなとかあれこれ考えて、そんな感じで今日が終わっていく。見られるようならそれこそ『火垂るの墓』『この世界の片隅に』のような映画を見て、あの戦争や原爆について考え直すのも一興かなとも思ってしまった。

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