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2022/03/23

3度目のワクチン接種について、具体的な日取りが決まったことを教わった。コロナ禍が始まって2年ほど経つと記憶しているが、かつて「インフルエンザの方がもっと危険なのになにを騒いでいるのだろう」と高を括っていた自分が居たことを改めて思い出す。あの頃、海外の友だちとWhatsAppでやり取りしていてコロナ禍について現実的な情報をたくさん聞いたことで、自分のその甘い見通しを反省させられたのだった。英語を学んでいてよかったと思わされた体験だった。3度目の接種で副作用はどう出るのだろうか。これまでのワクチン接種では特に副作用で悩まされなかったのだけれど……。

古井由吉『仮往生伝試文』を読み返す。この本ともずいぶん長く付き合ってきた。若い頃、こんなカタい本なんて絶対読めやしないと思っていたのだけど……今回の読書で古井由吉の世界とタルコフスキーの映画の相違点について自分なりに考えた。両者とも、私の中では人間のせせこましい死生観を超えた世界の実相を見せてくれている表現者として現れている。その意味ではJ・G・バラードとも似ている、とすら言える? 実を言うと私はバラードは短編とエッセイしか読んだことがないので『結晶世界』を読まなくては、なのだけれど。

その後清田隆之『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』を読む。私もまた「一般男性」なので、この本で語られる「男たち」の率直な自己開示に共感を覚える。彼らは「男たち」として扱われて育った。「男たち」……学校の中ではスクールカーストという暗黙の制度の中で強者として生きたいと願った(というか、そうした暗黙の制度が彼らにそう生きることを強いた、と言えないだろうか)。そして会社では出世したいという欲に突き動かされた。そんな悲しい「男たち」の話が揃っている。

「doing」ではなく「being」が大事なのだ、という本書の指摘が興味深い。宮台真司を参考にしつつ私なりに言えば、「どこの会社でどんな仕事をしているか」という「肩書(これは多分に自分の『外』にある『権威』に依存したものだ)」が大事なのではない。その肩書を外した「どんな人間か(これは自分の『中』にある自然と培われた『自信』によるものだろう)」という「ありのままの裸の自分」が大事なのだ、ということになる。私自身、「私は発達障害を抱えている人間である」という素のままの自分を認められるようになってラクになったという実感がある。あるいは英語をしゃべるようになって、思いも寄らない言葉が出てくる自分、「しゃべれる」自分に自信を持ったことも関係しているのかもしれない。

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